白昼夢の視聴覚室

犬も食わない

大いなる“しい”への気持ち

腹が立つというほどではないのだけれど、使われるとちょっとばかりモヤモヤした気持ちにさせられてしまう相槌がある。とあるテーマについて話し合っているときに、相手の意見を「しい」の一言だけで受け止めて、自分の意見に切り替えてしまう……という相槌である。この説明だけだとニュアンスが伝わりきらないのではないかと思われるので、例文を考えてみた。以下、例文である。

 

A「M-1の歴代王者で誰が一番好き?」

B「笑い飯かな」

A「ああ、いいよね」

B「笑い飯の漫才って、『ロボット』とか『闘牛士』とか『鳥人』とか、唯一無二の設定で楽しませてくれるよね」

A「“しい”、ボケとツッコミの役割が交互に入れ替わることで、二つのボケが同時に展開していくから、一本のネタを見ただけでも複雑な構造を楽しめるところも良いよねえ」

B「あー……、そうだよねえ」

 

おおよそ、こういう使われ方をされている。会話の相手から期待しているような回答が提出されなかったときに、その回答をすぐさま自分の回答へとすり替えてしまうことによって、理想とする話の方向性へと展開させるための手法である。もっとも、それ自体については、さしたる文句はない。自らが理想としている話のテーマが明確に存在しているのであれば、その方向性へと連なる会話をスムーズに展開させられる切り出し方をしていただきたい気持ちがあることは否めないが、そこにさしたる不満はない。

気になるのは、回答を“しい”の一言で処理することによって生じる寂しさである。先にも書いたように、会話の方向性を切り替えられることについては、不満を感じることはない。ただ、“しい”の一言だけで切り替えられてしまうと、相手の意見が自分の理想とする内容からかけ離れていたという心の中で収めておくべき思考が、あまりにも露骨に表れてしまうところに問題がある。少なくとも、相手に意見を求めていたのではなく、それをきっかけに話を展開しようとしていた(=相手の意見そのものにはあまり興味がなかった)ことが、透けて見えてしまう。せめて、コミュニケーションを取るつもりがあるのならば、もうちょっとしっかりと相手の意見を受け止めてもらいたい。例えば、以下のように。

 

A「M-1の歴代王者で誰が一番好き?」

B「笑い飯かな」

A「ああ、いいよね」

B「笑い飯の漫才って、『ロボット』とか『闘牛士』とか『鳥人』とか、唯一無二の設定で楽しませてくれるから、好きなんだよね」

A「分かるよ。『民俗博物館』のネタとか、『ハッピーバースデー』の歌い方のネタとか、笑い飯じゃないと思いつかない発想って感じがするよね。あと、ボケとツッコミの役割が交互に入れ替わることで、二つのボケが同時に展開していくから、一本のネタを見ただけでも複雑な構造を楽しめるところも良いよねえ」

B「いいよね。基本、二人がどっちもボケだから、お互いにボケ合う展開に持っていけるんだよね。スゴいよね……」

 

“しい”で受け止める手法は、この程度の僅かなカロリー消費すらも惜しんでいるような気がして、ちょっと引っかかってしまう。俺との会話でコスパを気にしてるのかお前は、とか言いたくなってしまう。会話のキャッチボールをしているつもりなのに、この瞬間だけ、テニスの壁打ちの壁にさせられてしまったような気持ちになってしまう。まあ、別に腹が立つというほどのことではないのだけれど、ご配慮いただけますと幸いです。マジで。