白昼夢の視聴覚室

犬も食わない

『O.P.KINGのテーマ』好きだったなあ。

風邪をひいて熱が出ているときや、二日酔いで動けなくなってしまったときには、我が家ではとりあえずグリーンダカラを飲むようにしている。ポカリスエットほど高価ではなくて、アクエリアスほど濃厚ではないあたりが、丁度良い。そんなグリーンダカラを飲んでいるときに、たまに思い出すのが、そもそもの元祖であるダカラの存在である。そもそもグリーンダカラは、ダカラの派生商品として発売を開始した製品だったはずなのだ。それなのに、いつしかダカラを店頭で見かけなくなってしまい、気付けば巷にはグリーンダカラばかりを目にするようになってしまった。今や、ダカラの派生商品である筈の“やさしい麦茶”シリーズにも、グリーンダカラの名が冠せられている。ああ、諸行無常の響きあり。ところが、ダカラの濃縮タイプが発売されていることを、最近になって知った。1リットルから2リットルの水を混ぜるだけでスポーツドリンクになるというアレである。それが当時とまったく同じ味なのかどうかは、まだ飲んでいないので分からないのだが、そのことを知って、なにやら懐かしい友人と再会したような気持ちにさせられたのであった。……無論、嘘である。私が真っ先に思い描いたのはラピュタ王の姿だ。「ダカラは滅びぬ!何度でも蘇るさ!」。

不倫の代償

国民民主党代表の玉木雄一郎氏に不倫報道。さぬき市出身である玉木氏は西讃地区在住の私とは選挙区が別なのだが、同郷の人間によるゴシップ報道は見ていて居たたまれない気持ちになる。まあ、そんなことは正直、どうでもいい。それよりも私が気にかけているのは、玉木氏の不倫相手である小泉みゆき氏のことである。元グラドルで高松市観光大使を務めていた小泉氏のことは以前から存じ上げていた。某日、他県で開催された香川県のプロモーションイベントの様子を撮影した動画を視聴していたところ、彼女が進行役を務めている姿が映し出されていて、その地方のイベントMCらしからぬプロポーションの良さに驚き、詳細を検索したことがあったのである。そこで彼女の年齢が39歳と知って更に驚愕、思わずインスタグラムのアカウントをフォローさせられてしまったのであった(無論、スケベ心によるものであることはいうまでもない)。そんな彼女が政治家と不倫である。小泉氏にガチ恋していたわけではないが、以前から認識していた人間が大きめのゴシップ報道の渦中に飲み込まれている姿を見ていると、なにやら心配になる。現在、小泉氏のSNSアカウントはすべて削除され、所属事務所である株式会社アンセムのホームページからもプロフィールが見られないようになっている。X(旧Twitter)では、報道写真における小泉氏の39歳とは思えないような(とされている)露出度の高いファッションに多くのツッコミが殺到、早くもネタ画像として昇華されつつある。当の玉木氏には「今回の件は財務省によるハニートラップなのではないか?」「不倫よりも大事なのは政治家としての仕事だ」と擁護の声があがっている。そこに小泉氏の姿はない。沈黙である。パワーバランスに差がある有名人によるゴシップ報道において、よく見られる状況である。私もこれがまったく見知らぬ女性との不倫報道であれば、世間と同じような反応を取っていたかもしれない。しかし、私は知っている。ゴシップ報道以前の彼女のことを知ってしまっている。故に気になる。気になってしまっている。今、社会全体から嘲笑され、築き上げてきた地位を失い、不倫相手からは「妻に叱られて……」と逃げの態勢を取られている彼女のことが。不倫の代償といえばそれまでなのだろうが……それまで、なのだろうか?

飴季の到来。

冬になると飴を買う。空気の乾燥に伴い、傷つきがちな喉をケアするために、のど飴を買う。ただ、のど飴ではない飴、非のど飴も買う。喉のケアとは無関係に、冬場は飴を舐めたい衝動に駆られる。ただ、その衝動の根っこにあるのは、のど飴を舐める習慣によるところが大きいような気もする。のど飴を舐める回数が増えることによって、口の中に何もない状態に却って違和感を覚えるのかもしれない。否、冷静に考えてみると、私が主に購入しているのど飴は、龍角散やヴィックスのように喉のケアに特化しているものではなく、子どもでも気軽に舐められるようなフルーツ味のものが多い。そのことを思うと、そもそも「喉をケアするために飴を舐めている」という大義名分によって、自分の中に潜んでいる飴舐め欲を解き放っているだけなのかもしれない。とはいえ、飴舐め欲を潜めなくてはならない理由などは特にない(舐めたければ勝手に舐めればいい)ので、やはり乾燥によって口の中の水分が不足している状態を補うために、飴を舐めたい気持ちが高まっていると考えるべきだろう。……と、先日買ったばかりの飴を舐めながら、そんなことを考えていた。皆さん、とうとう冬ですね。

回転寿司の記録を取って、お寿司とちゃんと向き合ってみよう!

どうも、菅家です。

突然ですが、皆さんが好きな料理はなんですか? 私はお寿司が好きです。他にも好きな料理は色々とありますけれど、その中でもトップクラスに好きな食べ物といえるような気がします。お寿司が良いのは、シャリに載っているネタによって、大きく味わいが変化するところです。マグロが載っていようが、エビが載っていようが、タマゴが載っていようが、それがシャリの上であれば、すべてお寿司というカテゴリーに入れられてしまう幅広さ。しかも、ちゃんとお寿司の味になってしまうのですから、その料理としての器の広さは底知れないものがあります。先日、仕事をサボりながら、そんなお寿司についてボンヤリと考えているときに、ふとあることに気が付きました。

「そういえばオレって、お寿司とちゃんと向き合っていないのかもしれない」

多くの人がそうであるように、私がお寿司と最も触れ合う場所といえば回転寿司チェーン店になります。少し話は逸れますが、回転寿司っていいですよね。黙っていても向こうから多種多様なお寿司が流れてくるアトラクション性もさることながら、ラーメンや茶わん蒸しのような他ジャンルの料理にも手を出している雑多な感じがたまりません。ちょっと高級なイメージが未だに残っているお寿司を大衆向けのメシに押し下げた功労者といえるでしょう。まさに押し寿司……すいません、余計なことを書きました。消しませんけど。

そんな回転寿司でお寿司を食べているときに、ちゃんとひとつひとつのネタと向き合っていないのではないか?という疑問が脳裏を過ぎったのです。確かに、それらを食べている瞬間は、しっかりと美味しさを噛み締めているのだろうとは思うのですが、食べ終えた途端に次のネタのことを考え始めてしまっているような気がしてきたのです。仕方がないことといえば、仕方がないことなのかもしれません。基本的にお寿司は一貫だけで終了するものではありません。多くの人にとって、お寿司は複数種類のネタを食べることによって、ひとつの食事として成立するものだと思われます。とりわけ、次から次へと未知なるネタが流れ込んでくる回転寿司において、手元のお寿司を食べた途端に次のお寿司のことを意識する、そんな寿司ジゴロと化してしまうのも当然というものでしょう。

「でも、それはお寿司に対して、失礼な態度なのではないか?」

回転寿司チェーン店で作られているお寿司が職人の手によって握られているとは限らないことは、私も重々承知しています。お寿司を大量生産するためのマシーンの存在も把握しています。でも、だからといって、目の前のお寿司の存在を無碍に扱うのは、また話が違います。ぞんざいに作られたお寿司だからといって、ぞんざいに対処してもいいということにはなりません。それは自らのお寿司に対する愛情への裏切りです。

……というわけで、今回の記事では回転寿司チェーン店で食べた寿司ネタ全皿と、食べている当時の心境を記録することで、私がお寿司とどのように向き合っているのかについて改めて考えてみることにしました。訪れたのは平日夕刻の某回転寿司チェーン店。一人なのでテーブル席ではなくカウンター席をチョイスします。お客さんの数が少なかったからなのか、レールの上に流れているフリーの寿司は見当たらず、完全注文制となっていました。おかげで食べたネタを記録しやすかったのですが、ちょっと画が寂しかったですね。

以下、その日の私の記録となります。お暇な方は最後までお付き合いください。

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君たちはどう揚げるか

ちょっと前にスーパーで購入した魚肉ソーセージが美味しくない。不味いとまではいかないのだが、喜々として食べたいという気持ちにはなれない。高級な魚の風味がどうのこうのと書かれていたので、ついつい興味本位で手に取ってしまったのだが、ここまで口に合わないとは思わなかった。とはいえ、買ってしまったからには、購入者としての責任を取らなくてはならない。これを「不味い!」と断言して捨ててしまうのは、飽食の時代を代表する典型的なダメ現代人の振る舞いというものである。

とはいえ、そうなると、どうしたものか。なんだかんだ考えに考えた末に、「天ぷらにすると美味しくなるのではないか」という結論へと辿り着いた。クセの強い味付けも、天ぷらの衣で包み込んで天つゆやポン酢につけてしまえば、食べやすくなるのではないだろうか。我ながら悪くない考えである。ただ、この結論には、ひとつの問題がある。私はこれまでの人生において、一度も天ぷらを作ったことがない。油の温度管理が面倒臭そうだし、調理後に残る大量の油の処分もややこしそうだったからだ。

そこで思い出したのが、以前にスーパーで見かけたことのある、フライパンで天ぷらを作ることが出来る“焼き天ぷら粉”の存在である。聞くところによると、ただフライパンで焼いただけなのに、まるで天ぷらのような仕上がりになるらしい。また、フライパンで調理するので、使用する油も最小限に留めることが出来るという。本当か。それ本当なのか。それが本当なのだとしたら、これまでの天ぷらはすべて過去のものになってしまうのではないか。心の中に疑心暗鬼が生み落とされていたものの、他にすがるものもない。チャレンジの第一歩として、この焼き天ぷら粉を購入したのであった。本当に美味しい天ぷらを作ることが出来るのかしらん。

そして先日、実行に移すこととなった。

まず、例の魚肉ソーセージを、一口大に切る。薄めに切ってしまうと、味も何も分からなくなってしまいそうだったので、ほんのり大き目サイズに切り分ける。続けて、焼き天ぷら粉を水に溶かして、溶液の状態にする。ちょっと固くてドロドロしていて、菜箸で混ぜるとけっこうな力で反発する。生意気だ。それからフライパンを用意する。一面に油を引いて、中火に設定した電気コンロで温める。そこに溶液を通してネトネト状態になった魚肉ソーセージを置いていく。菜箸でつまむと、ツルツルしていて意外と難易度が高い。けっこうな量の溶液が魚肉ソーセージに付着するので、それを落とす作業にも時間を要する。揚げる前に、ザルのように穴の空いた容器の上に置いておけば、溶液を落とす作業工程を省略することが出来るかもしれない。魚肉ソーセージが油に浸かると、天ぷらを作るときならではのパチパチと泡がはじける音がする。耳心地が良い。

規定の揚げ時間は表面三分+裏面三分の計六分だ。三分後、魚肉ソーセージをひっくり返して、更に三分間揚げる。ひっくり返したとき、既に天ぷらが黒く焦げていることに気付き、戦慄が走る。確かにパッケージの説明には「中火で三分」と書かれていたのだが、どうやら我が家のコンロは、そこで想定されているよりも少し高めの温度に設定されているらしい。なかなか一筋縄ではいかないようだ。結局、一巡目の天ぷらは、全体的に焦げた状態で完成。なんだか暗い色をしている。闇に隠れて生きる妖怪人間のように暗い。続けて二巡目に移る。二巡目の天ぷらは焦がさないように二分+二分の四分で調理する。結果、やや茶色くなったものの、なかなか悪くない状態に仕上がった。三巡目の天ぷらは更に短く一分+一分の二分間で調理してみる。白い。今度は白過ぎる。浜崎あゆみのキャリアハイぐらい白い。流石にちょっと不安になったので、更に一分ずつ揚げることにした。

結果、キッチンペーパーを底に敷いた皿の上には、魚肉ソーセージの天ぷらが山積みになることとなった。黒→茶色→白の階層は、どっかの国の政治情勢を表しているようにも見えて、なんだかちょっと風刺的である。それらをアトランダムに食べていく。うっかり天つゆを購入することを忘れていたので、ポン酢でさっぱりと頂く。口に入れるとカリッとしていて美味い。素の状態だとクセの強かった味も、かなり食べやすくなっている。一応、成功したということにしてしまっても、まあ良いのだろう。また、そのうち挑戦してみよう。次はシーフードミックスでかき揚げだ……!

あの場所に帰りたい

Nintendo Switchで『スーパーマリオRPG』のリメイク版をプレイしている。元のスーパーファミコン用ソフトが発売されたのは1996年のことなので、およそ28年ぶりのプレイである。多少、元のソフトから改変されている要素も見受けられるが(三人による合体技は正直なところ蛇足に感じている)、基本的には当時と変わらない感覚で楽しめている。驚いたのは、その当時のゲームの内容をがっつり覚えていることだ。マロのカエルコインを盗んだクロコのことも、ドゥカティとブッキータワーをつなぐイガ谷のことも、ちんぼつ船のパスワードのことも、しっかりと記憶に残っている。それほど元のソフトを真剣に楽しんでいたということなのだろう。それらのひとつひとつを攻略していくたびに、懐かしい気持ちに包み込まれる。以前、ライターのブルボン小林氏が、テレビゲームのステージを進めるごとに、砂漠や海や氷の世界へと変化することについて、“観光”と書いていたことを思い出す。だとすれば、いわばリメイク版のソフトをプレイするということは、かつて訪れた場所に再びやってきて、当時と変わらない景色に感動を覚えることと同義だといえるのかもしれない。今の私はモンスタウンにいる。これから、豆の木、マシュマロ王国、武器世界が待っている。楽しみで仕方がない。最後に余談だが、例のキノコ城の隠しカエルコイン、一発で取ることが出来たのにはちょっと感動した。難しいんだよなあ、あれ……。

その厳しさはどこからやってきたものなのか?

かつて『爆笑オンエアバトル』という番組があった。10組の若手芸人が100人の一般審査員の前で漫才やコントを披露し、点数の高かった5組のパフォーマンスだけがオンエアされる……というシステムのネタ番組である。この『爆笑オンエアバトル』の2002年2月放送分において、こんな一文が放送された。「〇〇さん、体調悪そうでしたね。でも、コンディションを整えるのもプロかと……」。これは、ネタがオンエアされなかった芸人に対して、一般審査員が寄せたジャッジペーパーのコメントである。このコメントが主張していることは正しい。あまりにも正しい。ただ、正しすぎる。多くの人前に立つ特殊な稼業に就いている芸人といえども、私たちと同じ人間であることには変わりない。時には体調を崩してしまうこともあるだろう。そのことが観客に悟られてしまうほどの状態であったのならば、それは確かに芸人としてあるまじき姿を晒していたといえるのかもしれない。とはいえ、それでもこの指摘は、体調不良を押してまで舞台に立とうとする芸人に投げかける言葉としては、あまりにも無情である。そもそも、それは芸人だけにいえることではない。仕事に就いている人はすべてその仕事のプロであるはずだ。自分自身の人生を顧みて、果たして常に完全なコンディションで仕事に臨んでいたと胸を張って言える人が、世の中にどれほど存在するのだろうか。その芸人に対して、「コンディションを整えるのもプロかと……」といえるような、厳しい視線を自分自身にも向けられるだろうか。昨今、これと似たような、やたらと自らのことを棚に上げて、他人に厳しい言葉を投げつけている人をよく見かける。まだまだ表現方法に文章が用いられることの多いインターネットの世界では、自らの匿名性を利用して、赤の他人に対して無責任に厳しい言葉を振り回すことが可能だ。それほど利用者が多くはなかった時代であれば、それもまたひとつのカルチャーとして認められるものだったのかもしれない(それでもネット上に蔓延る噂が実在する芸人に被害を及ぼした「スマイリーキクチ事件」が起きてしまっていたわけだが)。しかし、今は違う。誰でもインターネットを利用できる今の時代において、その無責任さは許されない。だからこそ、言葉を扱う人間として、自らを律する必要性がある。例えば、SNSで見かけた噂話などのようなものに触れるときには、それが有名配信者であろうと有名暴露系インフルエンサーであろうと、慎重であってもらいたい(むしろ間違いが起きたときに彼らに責任を擦り付ければいい……という思考になりかねない)。ちなみに、くだんのジャッジペーパーを書かれたのは、『M-1グランプリ2001』ファイナリストに選ばれ、売れっ子への階段を上り始めていたおぎやはぎである。

いじめについて

中学生のころ、いわゆる【いじめ】を受けていた。休み時間になるたびに、学校中を追い回され、暴力をふるわれるのである。もっとも暴力そのものは大して苦痛ではなかった。それよりも辛かったのは、「休み時間が来るたびに暴力をふるわれるかもしれない」という不安に苛まれることだった。いじめっ子の気まぐれによって、暴力をふるわれることもあればふるわれないこともある、という状況下に置かれていることが苦痛だった。その後、中学を卒業し、いじめっ子とは別の高校へと進学したために、いじめを受けることはなくなった。その頃、私はこんなことを思っていた。「これほどまでに理不尽な目にあったのだから、これから先の人生はすべてうまくいかなくちゃワリに合わない」と。人生において消費される運が有限なのだとすれば、これまでの不運とバランスを取るように幸運が舞い降りてくるべきだと考えていたのである。今にして思うに、この理不尽な状況を受け止めるために、現実逃避していたのかもしれない。無論、そのような都合の良い状態になることはなく、私の人生は上昇と下降を繰り返している。それどころか、たまにいじめを受けていたころの記憶が突如としてフラッシュバックして、心が苦痛で立ち上がれなくなってしまう事態に陥ることも少なくない。いじめとは支配欲の暴走だ。いじめる側は成長とともに心が安定して支配欲から解放されるようになっていくのかもしれないが、いじめられた側は支配されるという暴力を受けた侮辱を死ぬまで忘れられることはない。何をどう考えてもワリに合わない。そう思うと、いじめはリアルタイムでいじめを受けているときにこそ、自らの手ではっきりと解決させないといけないことなのだろう。金属バットでぶん殴ってやれば良かったのかもしれない。