白昼夢の視聴覚室

犬も食わない

無題

毎日のように通い続けているスーパーマーケットの入り口に、消毒液の機械が置かれている。手を近づけると、人感センサーが反応して、手のひらに向かって消毒液が発射される仕組みになっている。新型コロナウイルスの流行を受けて、その予防対策として設置されたものだ。この店を出入りするたびに、私はそれを使って手を消毒している。絶対ではない。入り口付近に人混みが出来ていて、消毒液の機械に近付くことが難しそうなときには、諦めて通過している。しかし、この店に限らず建物の中に入るときには、出来ることならば手を消毒したいと考えている。ありとあらゆる感染対策を実行に移すほどの気力体力を持ち合わせてはいないが、これぐらいのことは続けようという程度に危機意識を抱いているからだ。一方、すべての客が、その消毒液の機械を利用しているわけではない。人がいないときであったとしても、機械の前を素通りして、そそくさと買い物を始める人もいる。そういった人たちのことを、殊更に咎めるつもりはない。そもそも感染対策は個人の判断に委ねられるものである。こちらの観点から「感染に対する意識が不足しているのではないか」と思われるような行為に対して、私が口出しすることはない。その人は、その人なりの考えがあって、そのように行動しているのである。身内でも知人でもない立場の私が何を追及するものでもない。無論、それはこちら側に対しても、同様のことがいえる。私の私による私のための感染対策について、「その程度の対策では意味がない」だの、「そんな対策をいつまで続けているのか」だのと、他人に口出しされる筋合いはない。事実、昨年五月に新型コロナウイルス感染症が二類相当から五類へと移行したときに、感染対策について厚生労働省も「個人の選択を尊重し、国民の皆様の自主的な取組をベースとした対応に変わります」と説明している。誰も私の個人的な感染対策を否定する権利はない。だからこそ、他人の個人的な感染対策を、私が否定することもない。それぞれがそのような距離感で社会の平穏を保っていこうというのが、今の状況ではなかったのだろうか……と、いうようなことを考えながら、昨日放送の『水曜日のダウンタウン』を見ていた。新型コロナウイルスへの対応がまだ分かりかねていた時期の過剰な感染対策を再現し、ターゲットとなる芸人たちが戸惑う姿を笑いへと昇華する。過剰。その様子は、確かに今の観点から見れば、過剰で滑稽な様に見えなくもない。だが、その様子を笑い飛ばせるほど、私たちは新型コロナウイルスの正体を掴めているのだろうか。掴めているのだとしたら、現在進行中の個々人に選択されている対策には、何の意味があるのだろうか。正解が見えないからこそ個人に任せられているのではないか。まだまだ渦中なのではないか。それはもう過去なのか。それはもう懐かしいことなのか。飛沫対策は笑えるのか。過敏な消毒は笑えるのか。ソーシャルディスタンスは笑えるのか。当時の試行錯誤を覚えていないのか。亡くなられた人たちのことを忘れてしまったのか。それらが地続きになって、もがき苦しんだ果てに今があるんじゃないのか。コロナ禍といわれ始めて四年しか経たない今、五類に移行して一年しか経たない今、それらを歴史にするには能天気なほどに早過ぎる……のではないか。

(一部修正しました)