白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

『大怪獣のあとしまつ』感想文。

感想文を書くということは、自分自身について書くということと同義である。

例えば、とある小説について、感想文を書こうとする。この時、筆者はその小説のどの部分に何を感じたか、はっきりと言語化する必要性がある。どの場面の、どの人物の、どの発言に対して、どのように感じたのか、それこそが感想文に求められているものだからだ。そして、その行為は、相対的に筆者が「この場面のこの人物のこの発言に対して、このように感じている」人物であることの証明でもある。撮影された風景写真から撮影者の立ち位置が推測できるように、感想文は書き手のアイデンティティを推測させるものなのだ。故に感想文を書くときには慎重にならなくてはならない。

で、『大怪獣のあとしまつ』である。

三木聡監督の最新作である『大怪獣のあとしまつ』は、公開されると同時に酷評の嵐に見舞われることとなった。その内容の酷さから「クソ映画」「令和のデビルマン」「邦キチ案件」とも囁かれ、その勢いはTwitterで作品タイトルがトレンド入りを果たすほどのものであった。だが、はっきり言ってしまうと、私はこの状況を眉唾として捉えていた。というのも、そもそも三木聡監督の作風が、一般大衆に広く受け入れられる類いのものではないと思っていたからだ。

三木聡放送作家出身の映画監督である。『タモリ倶楽部』『ダウンタウンのごっつええ感じ』『トリビアの泉』などのバラエティ番組に関わっている。テレビドラマの脚本・演出も手掛けており、とりわけオダギリジョー主演の『時効警察』は人気を博し、何度も復活を遂げている。2005年に奥田英朗の小説を原作とした映画『イン・ザ・プール』を監督。以後、映画監督としての活動が中心となっていく。個人的には、シティボーイズの舞台演出を手掛けていた人物として、認識している。氏が手掛けた舞台の完成度は非常に高く、氏が降板した後も、シティボーイズファンの間では「三木聡時代を超えることは出来ないのではないか?」と言われていたほどであった。

そんな三木聡作品の特色といえば、「なんだかよく分からない台詞」である。例えば、シティボーイズの舞台において、きたろうや斉木しげるが妙なことを口走る。話の流れに沿っているような気がしないでもないので、ほんのりと聞き流してしまいそうになるが、よくよく考えてみると意味が分からない。これに対し、大竹まことや客演の中村ゆうじ、或いはいとうせいこうが「なんですか?」と食らいつく。だが、敢えて言及したところで、そこには何の意味もない。いや、意味はあるのかもしれないが、説明するほどのことではないという認識なのかもしれない。とにかく台詞の意味は説明されることなく、その“奇妙な余韻”だけが空間に漂い続けるのである。この奇妙な余韻こそ、三木作品において最も重要視されるものなのだ。

本作品『大怪獣のあとしまつ』においても、この奇妙な余韻は何度も発生している。どんなにシリアスなシーンであろうとも、しれーっと発せられて、もやーっとした空気を生み出している。三木聡作品を知っている人間であれば、ここに氏のイズムを感じ取ることが出来る。しかし、三木聡作品を知らない人間には、このニュアンスの面白さが伝わりにくい。ただ、ギャグのようなギャグでないような台詞が発せられ、面白くない空気になってしまっているようにしか見えない。結果、「ギャグがスベッている」という、誤った認識が広まってしまう。そうではない。それはギャグではない。

ただ、そのように認識されてしまうのは、『大怪獣のあとしまつ』がそれなりに邦画として成立しているかのように見えるためだろう。政治家たちの掛け合いの様子はコミカルだし、社会情勢の混乱はあからさまに現状(ないし過去)をパロディにしているが、いわゆるコメディにまでは落とし込んでいない。過去の三木作品と比較してみると、その違いは明白だ。かつての三木作品は明らかに虚構の世界を描いていた。虚構の中で奇妙な余韻を描いているからこそ、それが笑いへと繋がっていた。だが、本作はどちらかというとリアル志向で、奇妙な余韻が笑いに転換されるものとして成立しづらい空気になっているのである。要するに、笑いに転換するにしては、パンチが足りないのである。ことによると、それは不謹慎とすら捉えられかねないものとなっている。

しかし、あの終盤の展開によって、それらは全て意図的に仕組まれていた歪さであることだと分かる。ネタバレになってしまうので、具体的に説明することは出来ないが、ストーリーの深読みも、未回収の展開も、何もかもがあのラストカットに集約されている。要するに、本作は映画に対する皮肉を描いているのである。登場人物や描写から察するに、本作の土台となっているのは『シン・ゴジラ』だと思われるが、その『シン・ゴジラ』から省かれていた邦画の悪しき慣習とも呼ぶべき要素が、本作では敢えて意図的に盛り込まれている。雑に挟み込まれるキスシーンや、それらしく描かれているユキノの家族などはその代表例といえるだろう。

故に、本作品について批判する際には、あのラストカットが用意されていることを踏まえた上で、批判すべきである。大オチであるが故に、なかなか触れにくいところであることは理解できるが、それにしてもあのラストカットを無視して感情的に感想を書いている人があまりにも多すぎる。せめて「あんなラストカットで納得できると思ったら大間違いだぞ!」と前置きすべきだろう。

こちらからは以上です。

追記。この感想文が、一部界隈において「監督の作風を知らないと楽しめない作品である」と主張しているように捉えられているようで、驚いている。本文の目的は、映画界隈や特撮ファンの間で不評が噴出する状況下において、これまでの三木聡監督作品を知るお笑いファンとしての立場から、過去作品と『大怪獣のあとしまつ』の共通項を探り、監督が描こうとしているものについて考察することである。作品の是非を問うものではない。それは個人個人で好き勝手に鑑賞して感じ取ってもらえればいい。そもそも、本文が『大怪獣のあとしまつ』に対するオタクからの盲目的な擁護であったとして、何が悪いというのか。批判しかない状況など、ろくなものではない。全体主義もいい加減にしてもらいたい。

ただ、ラストカットに関しては、作風云々とは無関係に、無視することが作品に対して不誠実であろうと思ったため、最後にはっきりと指摘させていただいた。あのラストカットの持つ意味について、もっとみんなしっかりと考えるべきである。