白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

さらば青春の光『おっさん』の話。

中華屋の店主(森田)と常連客(東ブクロ)、二人のおっさんが野球中継を見ながら下らない戯言を交わしていたのだが、店主のおっさんのとある冗談に対して、常連客のおっさんが黙り込んでしまい……。

日常的な風景にとある要素が付け加えられることで笑いへと発展するタイプのコントである。その意味では、このブログで先日取り上げたライスの『あっちとこっち』に近いものがあるのかもしれない。ただ、ライスのコントに付け足された要素が圧倒的に非日常的なモノだったのに対し、今回のさらば青春の光のコントに付け足された要素は、まだ現実にギリギリ存在し得る程度であるため、よりリアリティが高い。しかし、付け足された要素を過剰に描き出すことで、現実味を帯びながらも非日常的なキャラクターとしておっさんを上手く色づけしている。

とはいえ、動画の説明文に「今の地上波では絶対に放送できない」と銘打っているように、ありとあらゆる多様性を認めようという傾向の強い昨今において、このコントにおける常連客のおっさんのような人間のことを否定するような態度は、時代に合っていない。ただ、こういうネタが受け入れられた時代があった、という事実を記録しているという意味では、大変に意義のあるコントである(※2014年の単独ライブで演じられた)。もっとも、店主の受け止め方次第では、いくらでも時代に対応できそうな気もするのだが。そうなると、「さらば青春の光」のコントである必要性が、薄れてしまうのかもしれない。

(※ここからはネタバレを含みます)

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アンガールズ『常連のお店』の話。

私のように偏狭で付き合いの悪い人間にも、友達と呼ぶに値する人間が何名か存在している。ただ、私が友達と思い込んでいるだけで、向こうが私のことをどう思っているのかは定かではない。知人と思っているかもしれないし、バカだと思っているかもしれない。下手をすると、私のことなど記憶から抹消している可能性もある。どうぞ忘れずにいてもらいたいところだが、それについて攻めることは出来ない。なにせ私も忘れっぽい性質で、数々のクラスメートの存在を失念してしまっているからだ。いつだったか、レンタルビデオで出くわした当時のクラスメートの女性から、「私のこと、覚えてる?」と訊ねられたことがあった。当然のことながら、私はまったく思い出すことが出来ず、随分と苦悶させられたものである。まずはそちらから名乗るべきだろう。名乗られたところで思い出せないが。

それはさておき友達の話である。私が友達関係を上手く築けない理由の一つに、相手に頼みごとが出来ない、というものがある。例えば、自販機で飲み物が欲しいのに、手元に小銭がまったくないときに、その場に居る友達からお金を借りることが出来ない。貸し借りの関係性が生じることに不快感を覚えるためである。友達から金を借りた瞬間、もはやそれは単なる友情関係ではなく、金を借りた者と金を貸した者の関係性になる。いわば債務者と債権者の関係性だ。……このような表現をすると、大袈裟だと笑われるかもしれない。事実、かなり誇張した表現である。だが、この不快感の理由を突き詰めると、そこに行き着くのである。ところが、友達関係を深めるためには、その程度の金の貸し借りなどは容易に行える関係性になるべきだという風潮が、世の中にはあるらしいのである。小さなことなど気にしない、気にならない関係性だということだろうか。それが真の友情というものなのだろうか。今の私には分からない。しかし、だとすれば、私が友達だと思っている相手とは、真の友情関係を結べていないということなのだろうか。否、そもそもの話、真の友情とは……。

アンガールズのコント『常連のお店』は、常連として通っている友人(山根良顕)が原因で、経営する居酒屋を畳まなくてはならなくなってしまった店主(田中卓志)の葛藤を描いたコントだ。このコントに登場する友人は、取り立てて悪い人物ではない。少なくとも、店の中で取っている行動に悪意はない。だからこそ、店主は友人に対して文句を言えない。友人だからという理由で許してしまう。結果、店を畳むことになってしまう。本末転倒だ。そして、これこそが、私の不快感の根源である。友達関係であるが故に、本来ならばはっきりと切り分けて考えなくてはならないことを有耶無耶にして、どうしようもないほどにだらしない関係性に落ちていく不安と恐怖。どちらが悪いわけではない。どちらも相手に対する好意に端を発した行動で、それ故に、止められなかった悲劇の坩堝。本来ならば笑っている場合ではないところだが、それを笑いに変えてしまうアンガールズの脅威の表現力に改めて感心させられる。どうして彼らの決死のハクリョクに満ちた表情はあれほど面白いのだろう。

画して、今後も私が友達と認識する人間は、それほど増えることはないだろう。多ければ良いというものでもない。だが、友達が多いと自称する人のことを、ちょっとだけ羨ましいと思ってしまうのは何故だろう。……何故だろう。

先週末に観た映画の感想文。

・キャンディマン(2021)

黒人差別を主軸としたストーリーに既視感を覚えたので、スタッフを調べてみたら、脚本に『ゲット・アウト』『アス』の監督で知られるジョーダン・ピールが参加していて、腑に落ちました。すっかり、そういう作風の作家として、自分の中でイメージが定着してきましたよ。単なるダークヒーローではなく、理不尽で不条理な側面を持ったキャンディマンというキャラクターが絶妙。鏡に向かって彼の名前を呼んだ人だけではなく、その場に居合わせた人もゴリゴリに巻き込まれて殺されちゃうところがたまりません。特に、とある人が殺されてしまうシーンで、カメラがどんどん引いていく構図はたまらないものがありました。都会の喧騒に打ち消される恐怖。ホラーならではの後味の悪さと差別の歴史に蓄積された憤怒が同時に感じられる、なんとも奇妙な映画でありました。日本でもこういう映画が作られてもいいと思うんですけど、どうなんでしょう。

 

・映画大好きポンポさん

原作は映画制作の情熱をシンプルに描いた漫画でしたが、映画版では資金繰りの苦労や映像編集の葛藤などが追加で描かれていて、よりエンターテイメント作品としての深みが増したように思います。この辺はアニメ版の『映像研には手を出すな!』に通じるものがあります。安易に比較するものではないのかもしれませんが、個人の発想を可視化する漫画作業と、集団で一つの作品を生み出す映画作業との違い、みたいなところのあるのかもしれませんね。ストーリーに重みを加えたことについては、原作ファン的にはちょっと微妙に感じるところがあるかもしれませんが、個人的にはアリ。特に編集シーンの苦悶は、指定された文字数の中で書きたいことをまとめないといけないライター仕事と重なるところがあって、なにやら胃がキリキリ痛みました(撮影時の苦労を思えば、そのストレスはより一層のものだと思いますが)。続編もあるといいですねえ。

 

・羅小黒戦記 僕が選ぶ未来

中国の漫画を原作とした映画なんだそうですよ。しっかり観ていないと置いていかれそうになるところがあり、片手間での鑑賞を微塵も許してくれませんが、だからこそ作品世界にのめり込んだときの快感はたまらないものがあります。登場キャラクターは魅力的だし、広大な世界の描写も美しくて、目が離せません。なにより私が惹かれたのは、絶妙な軽さ。ところどころにキャラクターがデフォルメ化されたギャグシーンが挟み込まれるんですが、そのノリの軽さが、ちょうど私が学生だった時代のファンタジーコミックっぽいんですよね。エニックス系の、ちょっと大人びた感じのやつ。その辺の親しみやすさが、なんだかとても懐かしかったです。あのノリは意外と普遍的なんだな。ストーリーも熱くて、ラストシーンはうっかり泣いてしまいました。いやー、面白かったな。ちなみに、このタイトルは“ロシャオヘイせんき”と読みます。毎回忘れちゃうな。

 

久しぶりにガッツリと映画を観た週末でした。たまにはこういう日を作った方がいいですね。現実ばかり見ていると疲れます。

2022年4月のリリース予定

20「ロッチ単独ライブ「モモイロッチ」
20「THE NEWSPAPER LIVE 2021

どうも、すが家しのぶです。このところ芸人さんのネタについて書く技術が落ちているような気がしたので、一日一回のペースで芸人のネタについてのコラムを書き続けているのですが、完全にやる気が失われております。何もやらないことに不安になったからって、無茶をすればいいというものではありませんね。

さて、四月です。いわゆるところの「出会いと別れの季節」ですが、アラサーを超えてアラフォーに突入した大人である私には、まったく無関係な言葉であります。この年齢になると、経験するのは別ればかり。それも往々にしてネガティブな理由による別ればかり。否、最近はコロナ禍ということもあって、年齢無関係に出会いよりも別れの方が多いのではないでしょうかね。なんとも厳しい時代です。こんなことなら、アラサーのうちに志賀島の砂浜パーティにとっとと参加しておけば良かったな。いや、知らない人からしてみれば何の話やって話ですね(そういうお誘いを受けたことがあったのです。参加していれば私もパリピになれたのかしらん)。

そんな四月のラインナップは上記の通り。ロッチは『銀座ロッチ』以来、一年ぶりの新作リリース。単独ライブが当たり前にDVD化される流れが出来てますねえ。……前作、あんまり売れていないようですが。THE NEWSPAPERも一年ぶりの新作。何年か前に一回だけ作品を視聴したことがあって、その時はあんまり……だったんですけど、ここ数年は一年に一度のペースでDVDをリリースしているようです。固定ファンがいるんだろうな。時勢のあわただしい昨今、久しぶりに観てみるのも良いかもしれませんねえ。

来月は、コント王のトリオによる最新単独公演のソフトが出ます。

GAG『転校生』の話。

ルッキズム」という言葉がある。人を外見の美醜で評価する考え方を示すものだ。ざっくりと調べたところによると、1960年代のアメリカで誕生した「ファット・アクセプタンス運動」という、肥満体の人間に対する「意志が弱い」「怠惰」などといった偏見に基づいた差別に対する抗議運動の中で生まれた言葉らしい。

この「ルッキズム」という言葉を目にするたびに、私はGAGのコント『転校生』を思い出す。如何にも大人しそうな文化系といった風貌の転校生(ひろゆき)が、まだ誰からも喋りかけられていないことに気が付いたクラスメートの二人(福井俊太郎・坂本純一)が、親切心から話しかけてみるのだが、会話を重ねていくと、彼が見た目のイメージとはまったく違うバリバリのリア充であることが発覚する。

そんな転校生の見た目のイメージと性格のギャップに対し、「違うねん!」とツッコミを入れる福井。事実、その見た目と性格のギャップはあまりにも大きく、観客も福井のツッコミを受けて、笑ってしまう。しかし一方、坂本はそんな転校生の発言にまったく疑問を感じていない。そういう人間であるということを素直に受け入れている。よくよく考えてみると、確かにその通りなのだ。口調や態度が大幅に誇張されたキャラクターではあるものの、転校生の発言にそこまで非常識なところは見受けられない。あくまでも福井は、転校生のイメージとのギャップに違和感を覚え、ただただ勝手に腹を立てているのである。これぞまさに「ルッキズム」ではないかと私は思うのである。

しかし、だからといって、このコントが笑えないという話をしているのではない。むしろ、それはそれとして、このコントは面白い。一方的な言及にならないように二対一の構図で福井を孤立化させたり、福井の言い分に対して受け入れるでも否定するでもなくまったく理解を示さなかったり、ひろゆきの演じる転校生のキャラクターを強烈なキャラクターに仕立て上げたり、笑いのための仕掛けが随所に施されている。ただ、ルッキズムという考え方が浸透している今の時代に、こういった類いのコントが新たに生み出されることは困難かもしれない……(私はこのネタを十年以上前にテレビで目にした)。

ベストシーンは「ジェイ」のくだり。

シソンヌ『別れ』の話。

お葬式という場は笑いを生み出しやすい。

無論、通常のお葬式においては、笑いは禁物である。故人を悼み、遺族を労い、最期の別れを涙ながらに噛み締める場で、笑いはとても許されるものではない。だが、現実の世界において、徹底的に厳粛でなくてはならないからこそ、コントという虚構の世界においては笑いを生み出しやすい。そこにも「緊張と緩和」の構造が組み込まれている。ただ、多くのお葬式を舞台としたコントは、「お葬式」という儀式の本来の目的から目を背けたものだった。シチュエーションの空気だけをコントの世界にペーストしているだけのものが多かったのである。

そんなお葬式の本質に真っ向からコントで挑んでいるのが、シソンヌの『別れ』である。三十歳を目前に亡くなってしまった妹の葬儀で喪主を務める兄(じろう)が、従兄弟(長谷川忍)に見守られながら過剰なほどに気丈に振る舞いながら参列者に向けて挨拶をする。粛々と進行すべきお葬式で、ちょっと非常識なほどにハイテンションな挨拶を展開する兄の姿は、笑えるものとして描かれている。これまた緊張と緩和のギャップによるベーシックな笑いだ。

だが、そんな兄の言動の奥底からは、大切な家族を失ってしまった人間のぐちゃぐちゃになってしまっている感情が滲み出る。挨拶文の内容も、笑いどころを散りばめてはいるが、今は亡き妹の思い出と後悔に満ち溢れている。そこには故人と別れるための儀式としてのお葬式の意味が、明確に描かれている。そんな兄の挨拶を観て、観客は泣きそうになる。笑いと涙が交互にやってくる。感情が大忙しだ。途中から、従兄弟も混ざって漫才のようになっていくのだが、その姿も笑えるし泣ける。

コントとは笑えるものだと考えている人も多い。気持ちは分かる。コントと聞いて見せられた舞台が、微塵も笑いどころのないものだったら、なにやら損をしたような気分になる。だが、ただ笑えることだけが、コントの役割とは限らない。シソンヌの『別れ』を観るたびに、私はコント表現の可能性の幅広さを感じる。コントの出来ることは、まだまだもっとたくさんあるはずなのだ。