白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

タイムマシーン3号『カツアゲ』の話。


私は怒っている。主にタイムマシーン3号に対して怒っている。

タイムマシーン3号が『爆笑オンエアバトル』ないし『オンバト+』について、その王者としての立場から、番組のシステムについて茶化したような態度を取っていることに、本当に怒っている。番組の放送が終了して十二年が経過した今、「あの番組の観客で評価されるのは容易いことだ」とでもいうような態度を取り続けていることに、心の底から怒っている。それが、彼らがテレビに出るために、敢えて取っている態度であることを前提に理解した上で怒っている。

そもそも『オンバト』という番組に対し、良くない感情を抱いている芸人が少なからず存在していることは認識している。だが、そういった芸人たちの主張の根底には、番組内で適切な評価を受けなかったことに対する不満がある。芸のことなど知らない一般の観客によって、特に上から目線に居丈高に、時に具体的な根拠もないままに、一方的に審査される腹立たしさは理解できる。

だが、先程も申し上げたように、タイムマシーン3号の場合、番組内で高い評価を受けていたことを前提に「あの番組の観客から評価されるのは容易いことだ」と過去のエピソードとして笑い話にしている。これは先の芸人たちと些か事情が変わってくる。タイムマシーン3号はあくまでも審査している観客のことを手玉に取っているように話しているが、そこでオンエアされたネタを全国の視聴者が観ていることを忘れている。目の前の観客よりもずっと多くの視聴者が彼らのネタを観て、面白いと思っていたのである。それなのに、ネタ以外のところで観客にアピールしていただの、自分たちの主張のないネタを演じていただの、どうして当時の観客と視聴者が楽しんだ記憶を易々と裏切るようなことを言えるのか。当時の観客や視聴者は全員滅んだとでも思っているのだろうか。しかし、なによりも私が腹を立てているのは、タイムマシーン3号が『オンバト』での自らの対する評価を軽んじることで、自身の芸を蔑んでいることに無自覚であることだ。

断言するが、タイムマシーン3号は天才である。2000年にコンビを結成し、その三年後から『爆笑オンエアバトル』に出場している。同年、『M-1グランプリ2003』において、準決勝進出。更に二年後、『M-1グランプリ2005』にて決勝進出を果たしている。東京出身で非吉本所属のコンビでありながら、結成五年目にしてM-1決勝の舞台を踏んでいるのである。当時、彼らとともに並び称されていた、磁石・三拍子・流れ星といった面々が叶えられなかったことを、タイムマシーン3号は達成しているのである。誇るべきことである。漫才の技術力、テーマの大衆性、分かりやすく面白いエンターテインメント性については、ここで説明するまでもないだろう。それほどに、誇るべき実力のあるコンビが、テレビに出るために自らの出自ともいうべき番組を腐してほしくないのである。それは結果的に、自らの歴史を腐すことになる。胸を張ってほしい。

そんなタイムマシーン3号が、漫才ではなくコントに力を入れていた時期があった。2016年には『キングオブコント』で決勝進出を果たし、並み居る強豪を抑えてファイナルステージに進出している。この時、彼らが演じたコントが『カツアゲ』だ。不良学生(山本浩司)が如何にも気弱そうな学生(関太)からお金を巻き上げようと、隠し持っているだろう小銭を見つけるためにジャンプさせるのだが、飛ぶたびに学生の身体から小銭が湧き出てくる。

「小銭を所持しているかどうか確認するためにジャンプさせる」という古典的ともいうべきシチュエーションの一部分を、極端に過剰に描くことで笑いに変えているコントである。いわばデフォルメの笑いとでもいうのだろうか。そのインパクトのある設定は、下手すれば出落ちで終わってしまいかねないものだが、このテーマを大きくずらすことなく、最後まで走り切ってしまっているところに、彼らの芸人としての胆力の強さを感じさせられる。会話のテンポ、小銭が出るリズム、隙のない展開で、小銭が溢れ出るたびに否が応でも笑ってしまう。シンプルだからこそ確かな技量を感じ取れる一本だ。これだけのネタを成立させられるのだから、あんまり卑屈にならないでほしい。マジで。

ベストシーンは股間から出てくるモノ。

海老車『立てこもり』の話。

笑いの元は「緊張と緩和」である。

なにやら偉そうな文言だが、何も私が勝手に言い出したわけではない。上方落語の伝説、二代目桂枝雀が提唱した持論である。余談になるが、枝雀の落語を観たことがない人は、一度だけでも観ておいた方が良い。既に亡くなられて二十年ほど経過しているが、その熱演はまったく色褪せていない。それほどに唯一無二で、破壊的に面白いのだ。いわば、実際の高座で実践している人が、実体験からこのように話しているのである。その説得力は並々ならない。

話を戻す。結局のところ、「緊張と緩和」とは結局のところどういうことなのか。枝雀の生涯を書き記した『笑わせて笑わせて桂枝雀』を書いた上田文世は次のようにまとめている。「普通ではないという状態が「緊張」で、それが普通の状態に戻る、つまり「緩和」されることで笑いが生じる」。つまり、常識では理解できない異常事態から、平常の状態へと引き戻されることで、笑いが生まれるというのである。その視点で見ると、幾つかの芸人のネタは、確かに「緊張と緩和」によって構成されていることが分かる。

海老車というトリオがいる。2021年に結成されたばかりで、大学のお笑いサークル連盟が運営している大会「大学芸会2021」で準優勝に輝いている。この海老車のコント動画が、ツイッターのタイムラインに流れてきた。このところ、色んな芸人のコント映像をチェックしている身としては、この機会を無視するわけにはいかない。試しに観てみると、これがたまらなく面白かったので、今回はこのネタについて書くことにした。この動画を拡散していた俺スナさんに頭が上がらない。

コントの舞台は高層ビルの六十八階にあるとある部屋。町工場で働いているという男(中村俊介)が、ピストルを片手に立てこもっている。部屋には人質に取られているサラリーマン(大根勇樹)。二人の具体的な関係性は分からないが、会話の内容から察するに、どうやら両者は下請けの関係にあったらしい。しかし、そこで何かしらかの問題が発生し、町工場の男が激昂、このような行動を取ってしまったようだ。とにもかくにも一触即発の事態である。ところが、そんな危機的状況に見舞われている二人の元へ、謎の男(佐伯瞭)が思わぬ形で介入することに……。

笑いの取り方としてはとことんオーソドックス。先に書いた「緊張と緩和」の仕掛けを見事に使いこなした(終盤の謎の男の行動による「緊張と緩和」の畳み掛けは秀逸!)上で、登場人物たちと観客を不条理に翻弄する。あまりにもオーソドックス過ぎて、ドリフが演じるスタジオコントの世界観のようにすら見える。それでも決して古臭さを感じさせないのは、フリとして演じられているドラマが、きちんと現代的なドラマとして完成されているからだろう。陳腐なあるあるで処理せずに、丁寧にオリジナルの現代的なストーリーを編み上げることで、同時代的な笑いとしてアップデートされている。オチも良い。ドラマとしてオチをつけるのではなく、あくまで笑いの絶頂部分で、コントとしてオチをつける、絶妙な落としどころ。現代における「緊張と緩和」のお手本ともいうべきコントである。

ベストシーンは「何か、文字で伝えようとしているのか!?」。

Conva『天才』の話。

コントのオーソドックスな手法に「有り得ないもの同士を掛け合わせる」というものがある。居酒屋やラーメン屋などといった日常的なシチュエーションに、本来ならば有り得ない要素を掛け合わせることによって、現実には起こり得ない歪みを生み出し、笑いへと転換する。重要なのは、有り得ない要素の概要が明確であること。そうすれば、どんなに現実離れした内容であったとしても、観客はその状況を笑えるフィクションとしてスムーズに受け入れることが出来るからだ。

田野、警備員、吉原怜那の三人によるユニット“Conva”のコント『天才』も、同様の手法を採用したコントだ。警察の捜査に協力してもらっている天才的な凶悪犯罪者(警備員)の担当を引き継ぐように指示を受けた後輩刑事(吉原怜那)が、如何にして凶悪犯罪者に捜査を協力してもらえるように対応するか、その方法について先輩刑事(田野)から指導を受ける。その方法とは、凶悪犯罪者のボケに対して、全身全霊を込めてツッコんであげること。そうすれば、ボケではなく、きちんと正しい情報を教えてくれるのだ。サスペンス映画を思わせる緊張感溢れるシチュエーションに、コテコテのボケとツッコミを絡めることで巻き起こる笑い。きちんと掛け合わされている。しかし、このコントは、ここから更に進展を迎える。

そのままツッコミの役目を引き継ぐことになってしまった後輩刑事だが、突然の状況に心が整理しきれていないためか、凶悪犯罪者のボケに上手く対応することが出来ない。結果、ボケを放置されてしまう凶悪犯罪者は、今度は後輩刑事に対してツッコミを入れる立場へと逆転する。先輩刑事と凶悪犯罪者の掛け合いで披露されたフォーマットを元に、新たな展開を迎えるわけだ。だが、このコントの芯の部分は、更に先のシーンにある。ネタバレになってしまうので、具体的な内容については書けないが、なかなかに急転直下の展開である。

この終盤の展開を踏まえた上で、全体の流れを見てみると、このコントが「面白いノリを強要する人間によるハラスメントのメタファー」になっていることが分かる。単なる偶然かもしれない。だが、中盤からのコミカルな展開を打ち消してまで、凶悪犯罪者の笑いのセンスに言及する展開を盛り込んでいるあたり、少なからず意識的に仕掛けたのではないかと邪推している。まあ、彼らが意識していようといまいと、そのように構造を読み取れるコントが今の時代に生まれたという事実にこそ意味がある。オーソドックスな手法の中に、込められたかもしれないメッセージ。ご存知なければ、是非ともご賞味いただきたい。

ベストシーンは「止めなーっ!!!」。

空気階段『警察』の話。

人生は出会いと別れで出来ている。

古いアルバムを開いてみると、当時は仲良くしていた筈のクラスメート、お世話になった教師、近所に住んでいる人たちの姿を確認することが出来るが、その大半の人たちが今、何をしているのかを知ることはない。時折、彼らに思いを馳せることはあっても、現状を調べようとは思わない。そんなことを繰り返しながら、人生はこれからも続いていくのである。

空気階段の『警察』は、そんな人生の出会いと別れについて考えさせられるコントだ。とある男を探している警察からやってきた男(鈴木もぐら)が、青年(水川かたまり)の家へと聞き込みにやってくるのだが、その姿がどこからどう見ても警察関係者のようには見えない。サングラスを掛け、ランニングシャツに黒のチノパンを着こなし、頭には「TOKYO」と書かれた青いモフモフキャップを被っている。しかし、そんな男の装いに対して、青年が異を唱えることはない。むしろ、男の言動に興味津々で、積極的に話を聞き入れようとする。

明らかな異物である男にツッコミを入れなくてもコントが成立してしまうのは、思うに、男の言動から生活感が滲み出ているためだろう。男は単なる異常者ではない。駅前のスーパーへ惣菜が半額になる時間を狙って出掛けているし、YouTubeで動画を配信しているし、スマホでの通話を即座にビデオへと切り替えることも出来る。その言動から滲み出る生活感は、舞台上では描き切れない男の人生を物語っている。いわば、このコントは二つの異なる人生を歩んできた男たちが、奇妙なきっかけで交わってしまった、人間交差点を描いたものなのである。

恐らく、このやり取りの後で、二人の人生が交わることはないだろう。最後の男の提案に対して、青年が乗らなかったからだ。だが、この出会いは、二人の記憶に残るものだろう。それぞれがそれぞれを忘れ得ぬ人として、二人の人生はこれからも続くのだ。

ベストシーンは、男がいきなり世間話を始めるくだり。

サツマカワRPG『パン』の話。


芝居において最も観客が注目するのは役者の演技である。

どんなにハデな音楽が流れようとも、どんなに豪華なセットが組まれていようとも、観客は役者の一挙手一投足にこそ目を見張る。多くの芝居において、物語は演者を中心に展開するものであると認識しているからだ。舞台上に流れるモノローグ(心の声)にも同様のことがいえる。それは舞台を彩る演出の一つであって、主軸は芝居そのものにある。

サツマカワRPGの『パン』は、そんな芝居のイメージを逆手に取ったコントだ。帰宅した会社員がカバンからパンを取り出して、ひたすら貪り食う……その姿を演出するために流れている筈のモノローグが、気付けば役者の演技を飛び越えてしまう。先へ先へと進もうとするモノローグに役者は振り回される羽目になるが、やがて抗うことも諦めてしまう。やがて訪れる虚無。それでもモノローグは流れ続ける。しかし舞台に残るのは虚無。その姿は理想と現実の厳しさのメタファーのようでもある。

だが、このコントの真の主題は、このモノローグに何の目的もないところにある。このモノローグの通りに役を演じ切ったからといって、そこに何が残るというのか。いずれにしても残されるのは虚無である。分け入っても分け入っても虚無。サツマカワが舞台上で食っていたのは、実はパンではなくて、観客であり視聴者だったのかもしれない。まったく人を食ったような話である。

ベストシーンは三個目のパンを食べているときの「あぁー、美味しかった」。

「R-1グランプリ2022」(2022年3月6日)

今年はサクッと短めにまとめます(希望)。


【First Stage】

kento fukaya

三者の視点から、三対三の合コン風景に対してツッコミを入れるコント。事前に録音した声に合わせて、2メートルほどの高さの三角柱に描かれた絵をくるくる回転させながら、合コンが展開する様子を映し出す演出が見た目に新しい。テレビよりもライブの方が映えそうだ。ただ、肝心のネタは、イラストを扱った内容のものとして見ると、やや無難な印象。敢えて虚構と現実味の狭間を狙ったのかもしれないが、もっと突飛な展開に踏み込んでも良かったのでは。くるくる回転させる演出も、「終電の時刻表」がベストで、それ以降の展開にはあまり驚きがない。これをベースに、もう一年ほど練り直していけば、更に面白いものが出来上がっていたのではないだろうか。ラストイヤーが悔やまれる。

 

お見送り芸人しんいち

ギターを弾きながら、「僕の好きなもの」をテーマに歌い上げる。「好きなもの」として歌っている対象の切り口から滲み出る性格の悪さが、笑いに昇華されている。基本的にはあるあるネタの形式を採用しており、そのエグみの強い切り口は、いつもここからの『かわいいね』に近いのかもしれない。この一言ネタの精度もかなり高いのだが、「一回もテレビ出たことない漫才師の長文の解散発表好き」と歌った直後にその長文を読み上げたり、普遍的な状況の事物を歌い続けていながら最後の最後で具体的なバンド名を出したり、歌が終わった後で「今日のお客さん、大好きです!」という一言で不穏な余韻を残したり、印象に残るアクセントを随所に設けて、聴いている人間を飽きさせない構成を組み立てている。短いネタ時間の中で出来る限りの、完璧なパフォーマンスを見せつけられていたのでは。

 

Yes!アキト(復活ステージ1位)

様々な一発ギャグを次々に披露する。一発ギャグとして披露しているが、やっているパフォーマンスの構成が基本的に「動きのフリ→台詞のオチ」であることを思うと、そのネタはむしろショートコントのシステムに近い。それも、かなり広い層に受け入れられるタイプの、無駄もクセも抑え込んだオーソドックスなもの。これはもう江戸むらさきの後継者といっても良いのではないだろうか。ただ、今回のパフォーマンスに関しては、やや当たり外れのムラがあったような。明らかにウケているネタと、観客に上手く伝わっていないネタがあった。バカウケしたときの破壊力を思うと、もっとウケる構成にも出来ただろうに……もっとも、一発ギャグという形式上、こういった大会で優勝するのは難しいのかもしれないが(それこそ、かつて五十音ボックスから引いたワードで一発ギャグを披露するパフォーマンスで優勝したCOWCOW多田のように、ギャグに一種のコンセプトでも設けないかぎり)。とはいえ、身一つでパフォーマンスを繰り広げる姿は、なにやら妙に格好良かった。これはこれで貫いてもいいような気がする。個人的に笑ったのは『骨壺』『クルトン』『十二単』。

 

吉住

普段は聖人のように温和なのに、芸能人の不倫に対しては気が触れるほどブチギレるOLの生き様を描いた一人コント。有名人のゴシップに対し、インターネット上で怒りをブチまける人たちの姿を具現化した人物を演じており、その自身と無関係な他者に対して向ける怒りの感情と異常な行動力、独自性が過ぎる論理から滲み出る狂気が、笑いへと昇華されている。こういった一部視聴者への皮肉をたっぷり含んだネタを、多くの人が注目する賞レース決勝の舞台に持ってきたことがもう素晴らしい。それだけで優勝といってもいい。インパクトが強いだけではなく、ここから彼女の志向性が明らかになる展開も素晴らしい。お金を一銭も落としたことのないイチ視聴者でしかないのに、テレビでよく見ているからという理由で「だから、当事者なんだ」とズケズケと断言できる危うさ。その危うさへの自覚の無さ。実にたまらない。とはいえ、「事務所に苦情を送る」「放送局に抗議する」「ネットを炎上させる」などのような、ありがちな行動には及ばない。ただ、YouTubeに動画をあげる。ここがまた絶妙なのだ。YouTubeに動画をあげることによって生じる摩擦については語らず、ただ動画をあげるという事実だけを語ることで、その行為のヤバさをマイルドにしている。そこで生じる収益からの寄付、からのオチに至るまでの流れも見事。この狂気的な彼女の言動の全てをなんとなくのイーブンで保っている、このバランスの妙。数多の選択肢から見事に正解を引き当てたかのような、まったく素晴らしいコントだった。二本目が見られなかったことが残念でならない。

 

サツマカワRPG

放課後の体育館裏に意中の相手を呼び出して、告白しようとする学生コント。前半は「そうか……大会、近いもんな……」が繰り返される状態から滲み出る「相手に軽くあしらわれている感」を見せて、後半は「そうか……大会、近いもんな」という台詞をメタ的に崩してナンセンスな笑いへと展開させる構成のコント。前半の展開は日本エレキテル連合の『未亡人朱美ちゃん』を思わせる。どんな話題を切り出してみても、片や「大会が近いから」、片や「ダメよ~ダメダメ」の一辺倒で断られ続けるところの、モテない男のピエロ的な哀愁漂う面白さが滲み出る。この辺りの面白さは、サツマカワの演技力によるところも大きい。同じような言い回しの台詞を延々と繰り返しているのに、観ている者にまったく飽きさせない表現力はなかなかのもの。個人的には劇団ひとりのそれを思い出した。この哀愁漂う前半があるからこそ、後半の「十回クイズ」「トロッコゲーム」に展開するメタ的な笑いが、より一層の深みを増す。なんだか、告白を諦めて、適当なことを言い出してしまったかのような、ナンセンスだけど哀愁も滲み出る感じがたまらない。そして訪れる妙にハートフルなオチ。これまでの哀愁がここで裏返ってしまう爽快感があった。ただ、終盤のご都合主義的な展開に関しては、もう少しアクセントが欲しかったような気も。例えば、ラーメンズの『男女の気持ち』のような、ひとズラしがあっても良かったような……。

 

ZAZY

ZAZYのデジタル紙芝居「恋愛バラエティ」。基本的なスタイルは以前と同じ。既存の言葉同士を掛け合わせて、生まれた言葉の語感の面白さと強引にイラスト化した不条理な面白さが、リズミカルに繰り広げられることで笑いを増幅させていく。そこへ更に、今回は「ネタ中に登場した人物たちに女性が告白するもフラれる」という展開を挟み込むことで、単なるナンセンスな笑いから、より厚みのある笑いに昇華されていたように思う。特に笑ったのは鋭角鈍角六角の「ごめん」。なんだよ、その伏線回収みたいなのは。余談だが、版権ネタが多いため、もっと評価が割れるものだと思っていたのだが、蓋を開けるとそうでもなかったことに、ちょっと驚いた。それが気にならなくなるほど面白かった、ということか。(追記。うっかり触れるのを忘れていたが、デジタルを採用したことで、よりリズミカルにハイテンポな展開を見せられるようになったことも、今回のネタでは非常に重要な改善点だった。鋭角鈍角六角のリズムは紙で再現できるものではないだろう)

 

寺田寛明

「始まりの歴史」。「お餅」「鉄棒」「テニス」のように、今では当たり前のように受け入れられているものの異常性を抽出して、改めてツッコミを入れる手法のスケッチブックネタ。設定そのものは割とありがちだが、「初めてのものには冷たい言葉をかけられることがある」というテーマの通り、「異常性」は単なるフリでしかない。ネタの肝となっているのは、そこから吐き出される「冷たい言葉」にある。で、この「冷たい言葉」が、なにやら異常に面白い。例えば、「お餅」の説明に対する「よくないよ」「怖い…」「サイッテー」という表現。「なんでだよ!」「どうしてそんなことするんだよ!」のような直接的なツッコミではなく、その説明を目にした人々の感想のラインに留める、この生々しいリアリティがたまらない。ここから更にワードの精度が上がっていく。特に笑ったのは、JRの金額の安さに対して言い放たれた、「裏に誰かの悲しみがあるはずだ」という一言。この言葉の表現の奥深さ。ただ、前半に比べて、後半は展開を重視することでややパワーダウンした感。とはいえ、面白かった。最後に、これは余談だが、「今では当たり前に受け入れられているものでも、改めて考えてみると異常に思える要素が少なくない。転じて、今まさに生まれようとしている新しいものも、異常だからと切り捨てるべきではないのではないか」というメッセージを含んでいるようにも見えたのは、考え過ぎだろうか。考え過ぎだろうなあ。

 

金の国 渡部おにぎり

トンビに持ってかれてしまった男のコント。非現実的な状況に巻き込まれ、死の危険もある状態でありながら、それほど慌てていない男の呑気さが可笑しみを生み出しているコント。面白くないわけではないのだが、これまでの徹底的に作り込まれたピン芸人たちによるネタを思うと、ややパンチに欠ける。否、だからこそ、審査員には受け入れられたのかもしれない。渡部おにぎりという芸人のキャラクター、声のトーン、ビジュアルは、緊張感の欠片も感じさせない。この舞台では、それがハマッたのかもしれない。分からないが。個人的には、トンビに持ってかれてしまった男が、最終的にどうなったのかが知りたかった。オチを付けないというオチも、そりゃアリといえばアリなのだが。

 

予選の結果、お見送り芸人しんいちZAZYがFinal Stageに進出。

 

【First Stage】

お見送り芸人しんいち

「応援するよ」。基本的なフォーマットは一本目の『僕の好きなもの』と同じ。応援すると言っておきながら、その切り口から滲み出る性格の悪さ。ただ、『僕の好きなもの』に比べて、『応援するよ』は対象への興味の距離がやや離れている感があり、毒の含有量もやや薄め。ただ、だからこそ、共感性の高いネタに仕上がっている。一本目のネタが受け入れられなかった人でも、こちらのネタなら受け入れられるという人も多いのでは。またしても例に挙げるが、こちらはいつもここからの『悲しいとき』に似ているといえるのかもしれない。終盤の畳み掛けも見事。ここで『脱力タイムズ』を出せるところがスゴい。R-1を観に来る観客・視聴者への信頼の高さ。ただ、一本目で爆笑した身としては、やや物足りなさも感じた。

 

・ZAZY

ZAZYのデジタル紙芝居「寿司屋」。基本的なスタイルは一本目と同じ。ただ、一本目における「ネタ中に登場した人たちにフラれる」のような、ネタに厚みを持たせるような構成は削られ、代わりに従来の「変な人が変な人に対して数珠繋ぎ的にツッコミを畳み掛ける」くだりが追加されている。満を持しての本丸登場といったところか。終盤、ZAZYの人生を振り返る思い出アルバムを見せる展開は、ZAZYがR-1ラストイヤーであることもあって、フィナーレ的な後味がとても良かった。ただ、肝心の内容だけを見ると、様々な有名人が登場する一本目のようなバリエーションがなく、全体的にネタの強度が落ちているように感じられた(敢えて「歯」に固執したのかもしれないが。そこは好き嫌いの分かれるところだろう)。そこをきちんとフォローした上で、このオチを用意していたならば、ひょっとしたら優勝していたのかもしれない。(とはいえ、正直なところリアルタイムで見ているときは、ZAZYが優勝するものだと思っていた。ここに書いた感想は後でネタを観直した上でのものである)

 

結果、お見送り芸人しんいちが優勝。おめでとうございます。

「R-1グランプリ2022」決勝直後の感想。

kento fukaya
【優勝】お見送り芸人しんいち
Yes!アキト(敗者復活)
吉住
サツマカワRPG
【準優勝】ZAZY
寺田寛明
金の国 渡部おにぎり

最も笑ったのは吉住。既に単独ライブのDVDで観ていたネタだったのだが、大幅にネタ時間がカットしなくてはならなかったことが、かえってネタの面白味を凝縮していたような。そもそも、あのコントを、全国放送のゴールデンタイムで披露したことに意味がある。あそこまでではないにしても、あの女性と同じ気質の人間は世の中にたくさんいる。

もちろん、吉住以外の芸人たちのネタも、しっかりと面白かった。フリップ芸の新しい形を発掘したkento fukaya、想像力を刺激するギャグとショートコントを身一つで表現する姿が格好良かったYes!アキト、熱のこもった演技力と緻密に計算された台本の一人コントに新しい一面を感じさせてくれたサツマカワRPG、「新しいことを始めようとする人には冷たい言葉が投げられる」という現代的なテーマとワードセンスが秀逸だった寺田寛明、見た目のインパクトと間合いの絶妙さがコント職人としての意地を感じさせた金の国 渡部おにぎり、それぞれまったく違った魅力を見せつけてくれた。これだよこれ、賞レースといえばこれなんだよ。

お見送り芸人しんいちもZAZYも最高だった。お見送り芸人しんいちは明らかに底意地の悪い笑いの視点で対象を「好き」「応援している」と歌い上げるネタで、いつもここからが『かわいいね』や『悲しいとき』で見せる角度から更にエグく切り込む笑いで、実にたまらなかった。ZAZYはスケッチブックからデジタルに切り替えることで、よりスピード感あふれる展開に。往年のMAD動画を見ているかのようで、おっそろしいほどに中毒性の高いパフォーマンスに仕上げていた。いやー、たまらんね。マジでたまらん。

正直、大会としてはまだまだツッコミどころが多いけれど(審査員と七人から五人にカット、ギリギリで公開された『東リベ』との謎コラボ、敗者復活戦の動画をすぐに引っ込めたYouTubeの公式アカウント、新聞ラテ欄での「今年は絶対に巻かない」という縦読み宣言、R-1×LINEのコラボCMにピン芸人じゃないガンバレルーヤと見取り図を起用)、とりあえず出ている芸人はみんな面白かった。それだけでとりあえず有り難い。ただ、もうちょっと、もうちょっとなあ……。

「すいません!誰か私たちに「しなきゃいけないこと」をください!」

一昔前に「自分探しの旅」という言葉が流行した。

旅に出て、非日常の時間を過ごしながら、自らを見つめ直す行為を表した言葉である。これに対する反論として、もとい、一種の揶揄として、「自分なんて探さなくても、そこにいるだろうが」というものがあった。この反論は正しい。確かに自分は常にそこにいる。だが、だからこそ、この反論は間違っている。何故ならば、そこにいる自分が必ずしも真の自分であるとは限らないからだ。

自分という存在は一面的に捉えられるものではない。友人と談笑しているときの自分と、親の小言に辟易しているときの自分と、上司に厳しく注意されているときの自分と、恋人と愛を育んでいるときの自分とでは、確かに同じ自分ではあるが、一貫して同じ人格を維持していない。それは、自分以外の人間と接しているときに生み出される、“社会に接している個人”としての自分である。「自分探しの旅」とは、そんな社会から解放されることで、改めて社会に属しない自らを見つめ直すところに目的があり、意味がある。

無論、生きていくためには、社会の中に身を置かなくてはならない。真の自分を見つけたからといって、社会に接している個人としての自分を捨てることは出来ない。生活そのものが変わることはない。だが、真の自分を知っているということは、何にも代えがたい財産である。社会に接している個人としての自分は、あくまでも社会が存在していることを前提としたものだ。友人、両親、上司、恋人……その他、諸々の存在を失ってしまったとき、社会に接している個人としての自分は不要となってしまう。そこに何が残るのか。そこで何をやろうと思えるのか。その時、人生において、真の自分が問われるのだ。

ラーメンズが2000年に開催した単独公演『home』の中で披露したコント『無用途人間』は、用途を与えられなくては何も出来ない“無用途人間”たちの一幕を描いたものである。大学に入学したばかりだった私は、このコントを初めて目にしたときに「なんとも面白味のない社会風刺コントだな」という感想を抱いた。自主性を持てずに、与えられた用途をこなすことしか出来ない人たちを、何の捻りもなく、ストレートに皮肉っているだけの、なんともありきたりなメッセージのコントだ、と。当時、ラーメンズの二人はまだ二十代。社会経験の浅い、まだまだ未熟だった頃である。

だが、三十代も後半の年齢になってきた今、このコントを思い出すことがやけに多くなってきた。私は、私が“無用途人間”であるという、自覚を持っていない、友達同士の交流においても、会社での仕事においても、家事においても、それなりに自主性を持っているつもりである。ただ、それでも、ほんの一瞬だけ、今の自分が役割を演じている自分なのではないか、と思うことがある。友達から、会社から、家族から、求められている用途を無意識に演じているだけなのではないか、と。

今、こうして趣味でブログを書いている自分ですら、読者から求められている自分を演じているのではないかとすら思っている。かつて、そこには確かに、真の自分がいた筈だ。でも、今でも、そこにいるのか。もはやそこに真の自分なんて存在していなくて、ブログを更新するという用途を演じている自分がいるのではないか。

「すいません!誰か私たちに「しなきゃいけないこと」をください!」

流石にそんな言葉、口が裂けても言えるわけがないのだけれど。けれども。