白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

シソンヌ『別れ』の話。

お葬式という場は笑いを生み出しやすい。

無論、通常のお葬式においては、笑いは禁物である。故人を悼み、遺族を労い、最期の別れを涙ながらに噛み締める場で、笑いはとても許されるものではない。だが、現実の世界において、徹底的に厳粛でなくてはならないからこそ、コントという虚構の世界においては笑いを生み出しやすい。そこにも「緊張と緩和」の構造が組み込まれている。ただ、多くのお葬式を舞台としたコントは、「お葬式」という儀式の本来の目的から目を背けたものだった。シチュエーションの空気だけをコントの世界にペーストしているだけのものが多かったのである。

そんなお葬式の本質に真っ向からコントで挑んでいるのが、シソンヌの『別れ』である。三十歳を目前に亡くなってしまった妹の葬儀で喪主を務める兄(じろう)が、従兄弟(長谷川忍)に見守られながら過剰なほどに気丈に振る舞いながら参列者に向けて挨拶をする。粛々と進行すべきお葬式で、ちょっと非常識なほどにハイテンションな挨拶を展開する兄の姿は、笑えるものとして描かれている。これまた緊張と緩和のギャップによるベーシックな笑いだ。

だが、そんな兄の言動の奥底からは、大切な家族を失ってしまった人間のぐちゃぐちゃになってしまっている感情が滲み出る。挨拶文の内容も、笑いどころを散りばめてはいるが、今は亡き妹の思い出と後悔に満ち溢れている。そこには故人と別れるための儀式としてのお葬式の意味が、明確に描かれている。そんな兄の挨拶を観て、観客は泣きそうになる。笑いと涙が交互にやってくる。感情が大忙しだ。途中から、従兄弟も混ざって漫才のようになっていくのだが、その姿も笑えるし泣ける。

コントとは笑えるものだと考えている人も多い。気持ちは分かる。コントと聞いて見せられた舞台が、微塵も笑いどころのないものだったら、なにやら損をしたような気分になる。だが、ただ笑えることだけが、コントの役割とは限らない。シソンヌの『別れ』を観るたびに、私はコント表現の可能性の幅広さを感じる。コントの出来ることは、まだまだもっとたくさんあるはずなのだ。