白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

「すいません!誰か私たちに「しなきゃいけないこと」をください!」

一昔前に「自分探しの旅」という言葉が流行した。

旅に出て、非日常の時間を過ごしながら、自らを見つめ直す行為を表した言葉である。これに対する反論として、もとい、一種の揶揄として、「自分なんて探さなくても、そこにいるだろうが」というものがあった。この反論は正しい。確かに自分は常にそこにいる。だが、だからこそ、この反論は間違っている。何故ならば、そこにいる自分が必ずしも真の自分であるとは限らないからだ。

自分という存在は一面的に捉えられるものではない。友人と談笑しているときの自分と、親の小言に辟易しているときの自分と、上司に厳しく注意されているときの自分と、恋人と愛を育んでいるときの自分とでは、確かに同じ自分ではあるが、一貫して同じ人格を維持していない。それは、自分以外の人間と接しているときに生み出される、“社会に接している個人”としての自分である。「自分探しの旅」とは、そんな社会から解放されることで、改めて社会に属しない自らを見つめ直すところに目的があり、意味がある。

無論、生きていくためには、社会の中に身を置かなくてはならない。真の自分を見つけたからといって、社会に接している個人としての自分を捨てることは出来ない。生活そのものが変わることはない。だが、真の自分を知っているということは、何にも代えがたい財産である。社会に接している個人としての自分は、あくまでも社会が存在していることを前提としたものだ。友人、両親、上司、恋人……その他、諸々の存在を失ってしまったとき、社会に接している個人としての自分は不要となってしまう。そこに何が残るのか。そこで何をやろうと思えるのか。その時、人生において、真の自分が問われるのだ。

ラーメンズが2000年に開催した単独公演『home』の中で披露したコント『無用途人間』は、用途を与えられなくては何も出来ない“無用途人間”たちの一幕を描いたものである。大学に入学したばかりだった私は、このコントを初めて目にしたときに「なんとも面白味のない社会風刺コントだな」という感想を抱いた。自主性を持てずに、与えられた用途をこなすことしか出来ない人たちを、何の捻りもなく、ストレートに皮肉っているだけの、なんともありきたりなメッセージのコントだ、と。当時、ラーメンズの二人はまだ二十代。社会経験の浅い、まだまだ未熟だった頃である。

だが、三十代も後半の年齢になってきた今、このコントを思い出すことがやけに多くなってきた。私は、私が“無用途人間”であるという、自覚を持っていない、友達同士の交流においても、会社での仕事においても、家事においても、それなりに自主性を持っているつもりである。ただ、それでも、ほんの一瞬だけ、今の自分が役割を演じている自分なのではないか、と思うことがある。友達から、会社から、家族から、求められている用途を無意識に演じているだけなのではないか、と。

今、こうして趣味でブログを書いている自分ですら、読者から求められている自分を演じているのではないかとすら思っている。かつて、そこには確かに、真の自分がいた筈だ。でも、今でも、そこにいるのか。もはやそこに真の自分なんて存在していなくて、ブログを更新するという用途を演じている自分がいるのではないか。

「すいません!誰か私たちに「しなきゃいけないこと」をください!」

流石にそんな言葉、口が裂けても言えるわけがないのだけれど。けれども。