白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

ぼくらが荼毘に付す理由

四ヶ月に一度ぐらいの頻度で「もう死んでもいいんじゃないかな」という感情に襲われる。ちょっとした失敗をやらかしてしまったときに、自分自身の愚かさ至らなさに呆れ果ててしまって、そういう状態になってしまう。普段なら、大して気にしていないような失敗であったとしても、そういう状態になってしまう(そもそも心のコンディションが良くない日なのだろう)。当然のことながら、そういう状態になったからといって、すぐさまホームセンターへとナイフやロープを買いに行くわけではない。ごくごく当たり前の日常を送っている中で、「死ぬ」という選択肢が視界の隅の方に見えているだけに過ぎない。ただ引き金に指を引っ掛けて遊んでいるようなものである。こういう状態のときに考えるのは、死に方である。「死」に対する不安はないが、出来ることなら痛みの生じる死に方は選びたくはない。実行に移すとすれば室内だろう。屋外で死のうとしているところを他人に見られたくはない。死後のことは考えない。「死」イコール「無」だと思っているので、そんなことを気にしたところで、何の意味もないだろう……と、ああだこうだと考えながら、じわりじわりと「死」の解像度を上げていく。ところが、半日ほどが経過して、作業に集中したり他人と他愛のない会話をしたりするうちに、そういった気持ちは何処かに消えてしまう。あんなにも「もう死んでもいいかな」と思い詰めていたはずなのに、そんな感情なんて元から無かったかのようになっている。要するに、単なる気の迷いでしかないわけだ。ただ、こういう状態に陥ってしまった時には、そんな風に客観的思考を働かせられない。そして、不意にやってくるそういった状態の時に、人はうっかり自ら「死」を選択してしまうのだろう。迂闊に飲み込まれないように気を付けていきたいものである。もっとも、どのみち病気や事故のような外的要因で死ぬことは決まっているのだから、いっそ自分自身のタイミングでいこうという気持ちも分からなくもな……おっと。どうやら今日もコンディションが良くない日のようである。