白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

評論 評論 it's all write

何年か前から「お笑い評論家」を名乗っている。過去に書いた文章が“評論”と呼ばれることが多いので、そのように名乗っている。正直なところ、この肩書きに強いこだわりはない。別に「ライター」を自称しても構わないのだが、文章力も読解力もあまり高い方ではないことを自覚しているので、そのように名乗ることは烏滸がましいと思ってしまう。それよりは、まだ芸人のネタの目利きの方に自信があるからと、「お笑い評論家」に落ち着いている次第である。とはいえ、二十代のころには、この肩書に対して強い思い入れがあった。お笑いを語りたがる人間に対する侮蔑的な表現として【自称・お笑い評論家】などと使われることが多かったため、その地位を向上させたいという熱意があったからだ。しかし、幾年月が経過して、そんな情熱もすっかり燃え尽きてしまった。肩書きなんて、仕事をする上では単なるきっかけでしかなくて、結局はどのような結果を残してきたかどうかが重要なのである。もっとも、このところはお笑いに対する熱意そのものがじんわりと落ち着き始めているので、「お笑い評論家」という看板を掲げ続けていることについて自分自身で疑問を抱き始めている。そもそも私の専門はネタの解析である。ネタの設定や構成などをバラバラに切り分けて、それぞれの要素がもたらす役割について考察することを快感としている。しかし、「お笑い評論家」という肩書きは、それよりもずっと広い範囲の、お笑い界全体を研究対象として俯瞰的に捉えているような印象を与えてしまう。この本位と肩書きの微妙な食い違いは、以前から気になっていたところではあったのだ。とはいえ、今から別の肩書きに変えるというのも面倒なので、今後もしばらくは「お笑い評論家」を名乗り続けることだろう。別に資格も免許も要らないし……。ところで、私自身もまた「お笑い評論家」を名乗っていることで、たまにその肩書きを嘲笑されることがあるのだが、その度に「こいつは俺が書いてきた文章もこなしてきた仕事も知らずに、ただ肩書きだけで他人を蔑んでくるような人として薄っぺらいバカ」としか思わないので、やめてほしい。罵倒としてはあまりにも初手過ぎる。その程度の発想しか浮かばなかった自分を恥じろ。

『R-1グランプリ2024』ファーストステージ:真輝志

『青春のナレーション』。青春ドラマの第一話にありがちな主人公のこれからを予見するナレーションに対して、真輝志演じる物語の主人公(高校の新入生)がツッコミを入れるメタ視点の一人コント。音声がボケ役を担い、演者がツッコミ役に徹するという意味では、そのスタイルは陣内智則のコントに近い。ただ、漫才的な笑いを主体に等身大の役を演じている陣内のコントに対し、今回の真輝志のコントは青春ドラマの主人公という役柄を崩していない。そう考えると、むしろ音声とともにひとつのドラマを紡ぎ出すピン芸人、マツモトクラブのそれに近いのかもしれない。ネタの構成は完全に正攻法。「草野球のベスト16」→「原曲キーで歌えるようになる」→「挫折して2万で売る」とネタのフォーマットを観客に理解させながら内容を徐々にグレードダウンさせていき、しっかりと笑いを取ったところで「軟式ラグビー」の一言できっちりとオチをつける。それからは「英語の勉強」「クラスメートの物語」「ナレーションがバグる」と前半とはまた違った角度の笑いを見せることで、幅の広さを見せつける。そして最後は再び本題へと戻り、ドラマとして見事な着地を見せる。一つのボケを軸としたコントとしては、教則本のような構成だったといえるだろう。ちょっとだけ気になったのは、終盤のナレーション以降のくだり。あのナレーションによってハッピーエンドが約束された後に、おそらくラグビーボールを投げ返すワンシーンを見せるのは、ドラマとしてもコントとしても一つの正解ではあったのだろうとは思う。ただ、笑いのプロたちが厳しい目で審査する決勝戦の場において、更に展開を裏切るような笑いを取りに行った方が良かったのではないか?とも思った。そこまで考えた上での、あのオチだったのだろうけれども。あと、これは意外と大事な要素のような気がするのだけれど、設定の新鮮味に対して偏見の矛先としての「軟式ラグビー」というチョイスは、あまりにも使い古され過ぎているような。割とコントのメインになる部分なので、あそこにも意外性のある部活動を嵌め込んでもらいたかった。

鳥よ山よ涙の明よ 灼熱の…ギャルのパンチー

鳥山明逝去。漫画家として、デザイナーとして、数多のクリエイターに多大なる影響を及ぼしてきた氏の早すぎる死は、世界中の人々にショックを与えたことだろう。否、氏に関しては、その存在があまりにも偉大すぎるがあまりに、亡くなったということに対して実感を覚えない人も少なくないのではないだろうか。かくいう私もそういった人間である。幼少期には『ドラゴンボール』のアニメ映画やおもちゃで遊んでいた記憶があり、中高生の頃には氏がキャラクターデザインを手掛けたRPGクロノトリガー』を何度も何度もプレイしていた私にとって、鳥山明は空気のように当たり前の存在だった。つまり、作品を世に送り出す“クリエイター”としてではなく、この世界の一端を構築する“創造主”として彼を認識してしまっていたため、その死を実感できずにいる次第である。もっとも、それは私が鳥山明という作家に対して、強い思い入れを持っていなかったからなのかもしれないのだが。

そんな鳥山明氏の作品の中でも、私が最も印象に残っているものはなんだろうか?としばし考えてみたところ、最初に思い浮かんできたのが『ドラゴンボール』のワンシーンであった。主人公の孫悟空とヒロインのブルマが七つ集めると何でも願いをかなえてくれるというドラゴンボールを探している道中で、そのうちの一つを持っている亀仙人という老人と出会う。ドラゴンボールを譲ってほしいと懇願するブルマに対し、亀仙人は「(ブルマの)パンチーを見せてくれ」と条件を提示。呆れながらも「そんなことでいいのなら」と、ブルマはスカートの裾をまくり上げる。しかし、実はブルマはパンチーを履いていなかったため(本人は気付いていない)、彼女は亀仙人に剥き出しの下半身を見せつけてしまったのだった。……嘘ではない。本当にこのシーンを最初に思い出したのだ。とにかく衝撃的なワンシーンだった。屋外で、服の下には何も着ていない女性が(寝間着姿だったのでノーブラでもあった筈)、そのことに気付かずに素肌をさらけ出してしまう描写は、幼い自分にはとても刺激的で大変にコーフンした。この影響から、十八歳を超えてからの私は、野外露出系のビデオを……いや、それはまた別の機会に話すとしよう。

自身がストーリー原案を務める新作アニメ『ドラゴンボールDAIMA』が今秋に放送されることが決定している最中での訃報である。その無念は想像に難くない。残されたスタッフによって素晴らしい作品となることを願っております。今はただ、お疲れさまでした。

俺のままでTしてKしてOする為にbombして来たキングオブコント

2024年3月14日放送の『アメトーーク!』において「賞レース2本目やっちまった芸人」が特集されていた。M-1グランプリ』『キングオブコント』の決勝戦において、1本目のネタで爆笑をかっさらって審査員から高い評価を得るも、最終決戦で披露する2本目のネタ選びに失敗してブレーキを踏んでしまった芸人たちに注目した企画である。ひな壇ゲストは、チョコレートプラネット、笑い飯、ロッチ、さや香。MC横のゲストとして、2015年から2020年にかけて『キングオブコント』で審査員を務めていた三村マサカズ(さまぁ~ず)、『M-1グランプリ』ファイナリストで2018年からは審査員を務めている塙宣之(ナイツ)。それぞれの芸人たちの思い出話の熱量がとてつもなく高く、かなりの撮れ高があったようで、予告によると通常回ではちょっと珍しい二週連続の放送になるらしい。

番組内では、あくまで優勝目前というところにまで迫っていた芸人たちにのみ着目していたが、今回のテーマで私が最初に思い出したコンビはTKOだった。2013年の『キングオブコント』において、TKOは1本目で896点を叩き出すも、2本目で808点という大失速を見せていたのである。もっとも、ファーストステージの時点で彼らは8組中4位だったので、わざわざ取り上げるほどのものではない……と、普通ならば考えるところだが、彼らの場合は他の芸人とは少し事情が違う。TKOは『キングオブコント』において四度の決勝進出を果たしているのだが、そのうち三回は、1本目と2本目の点数差が異常に大きいのである。二度目の決勝進出を果たした2010年には、1本目のネタでトップバッターということもあって820点という厳しい点数を叩いてしまうも、2本目のネタで916点と全体3位相当の高得点を出しているし、三度目の決勝進出を果たした2011年においては、1本目のネタで757点・2本目のネタで877点という100点以上の差をつけている。もっとも、当時はセミファイナル敗退者100人による審査という極端に点数が動きやすいシステムを採用していたことも関係しているのだろうが、それにしても激動である。今後、もしも同じような企画が放送されることがあるならば、その時は、この極端な点差を経験しているTKOにも、ちょっとコメントを聞きに行ってもらいたいと個人的には思う。

ちなみに、復活後のM-1においては、1本目のネタが高く評価されるも2本目のネタがさほど評価されずに終わってしまった漫才師は、それなりに存在している。例えば、2015年大会のジャルジャルは1本目で1位通過となるも2本目で3位に終わっているし、2017年大会のミキは1本目で1位の和牛と僅か3点差の2位で通過しているのに2本目では無投票で3位になっている。2021年のオズワルドも1本目は1位通過だったのに2本目ではインディアンスと同着3位だし、2022年のさや香……については、二週目の『アメトーーク』でも語られそうなので省略。その原因は分からないが、きちんと調べてみたら面白い傾向が見えてくるかもしれない。やらないけど。

疑ってばかりいられない でも信じれるものも少ない

相変わらず吉住の件について考えている。世間はすっかり新しい話題に興味を抱き始めていて、今ではアカデミー賞授賞式での役者たちの振る舞いに注目が集まっている。昨日の話題は古いログとして扱われ、今日の話題には焼けんばかりのスポットライトを浴びせる。絵に描いたようなソーシャルネットワーキングサービスの時代である。そこにはきっと吉住のコントに目くじらを立てていた人たちが何百人何千人といて、吉住について「デモに対する偏見を助長するコントを演じていた女芸人」という認識を変えるきっかけを得ようとはしないままに、次から次へと押し寄せている新しい話題に食いついていくのだろう。そして、また何かの機会で吉住が注目されたときに、「デモに対する偏見を助長するコントを演じていた女芸人じゃないか」などと、大して精査されていない当時の古臭い結論に基づいた悪態を吐くのである。当然のことながら、全ての人がそのように振る舞うわけではないことぐらい、分かっている。自分なりに考え抜いた結論として、吉住をそのように理解している人がいることも想像できる。それでも、吉住のコントに対して批判的なコメントを寄せている人の多くは、彼女が吉本興業ではなくプロダクション人力舎所属であることすらも知らない程に、芸人に対する興味を抱かない人たちだ。そういった笑いに触れる機会の少ない人たちが、彼女の本領を知らないまま、表面的な第一印象を元に批判し続ける状態は、お笑い好きとしてはなにやら寂しいと感じてしまう。……もっとも、お笑い関係じゃないところで自分も同じようなことをやっているのだろうし(こういう話をするたびに高橋優の『ほんとのきもち』の歌詞にある一文「ことの真相は何も分かってるようで分からない それでもどうにか生きていかなくちゃならない」が刺さる)、そういった人々の抱いているイメージを言語化して笑いに変えるのがまた芸人であったりもするので、いちいち考え込むことではないのだけれど……だからこそ、社会的な意味を帯びたネガティブな批判については慎重であってほしいよなあ。

友よ 答えは酒に飲まれてる

週末に酒を飲む習慣がある。それなりに飲む。チューハイのロング缶を四本ほど空けた後で、自分で作るハイボールを延々と真夜中まで飲み続けている。「自分はきっと下戸だろう」と勝手に思い込み、飲酒の席を避け続けていた学生時代を思い返すと、とても考えられない現状だ。ただ、聞くところによると、私の祖父は晩年までウィスキーをビールで割ったものを日常的に飲んでいたらしい(“ボイラーメーカー”というカクテルになるらしい)ので、その血筋を思えば当然の状況といえるのかもしれない。酒を飲む理由は酩酊である。アルコールによって思考が麻痺した状態で、YouTubeに公開されている他愛のない動画を見続けることが、楽しくて仕方がない。とはいえ、このような生活を毎週のように過ごしていると、流石に不安を覚えるようになる。「もっと実りのある有用な時間の使い方をすべきではないのだろうか?」と反省することもある。しかし、週末がやってくるたびに、気が付けば大量の酒を買い込んで、消費し、また酩酊状態でどうでもいいような動画を眺めている。何かを得ているような感覚で何も得ていない、ひたすらに無が流れていくだけの時間。それはそれで大事な時間なのかもしれない。ただ、問題なのは、翌朝に激しい二日酔いに襲われる点である。「起き上がったら死ぬかもしれない」という錯覚に陥るほどの気怠さと頭痛と吐き気で、まるで身動きが取れなくなってしまい、いつの間にか布団の中で夕方を迎えている。要は飲酒量過多なのである。とはいえ、酩酊状態になるためには、それなりの量を飲まないといけない。酒を飲み始めた時期に二日酔いになった記憶がないので、おそらく身体にアルコールへの耐性が出来てしまっているのだろう。このままではアルコール中毒まっしぐらである。何処かでブレーキを踏まなくてはならない。人生でチキンレースを開催している場合ではない。とりあえずチューハイのサイズを下げるところから始めよう。……その分だけハイボールを飲む量が増えそうだが。

もしかしてあれはもしかして むかし吉住の味方で

R-1グランプリ2024』決勝の舞台で吉住が披露したコントに対して、批判の声があがっている。デモ活動に参加した後で初めて彼氏の実家を訪れる女性を演じた一人コントが、デモ参加者に対する偏見を増長するものであるといわれているらしい。正直、よく分からない。ネタの中で吉住が演じていた人物は、ただただデモに参加した後で彼氏の実家を訪れただけの人間ではない。デモで使用した道具を持ち込んで、デモ中に壊れてしまった実家への贈り物を「戦った勲章なので……」とそのまま手渡し、衣服に他人の血がついていることを指摘されても平然としているような人間である。要するに、“デモ参加者”を演じているのではなく、“デモに参加しているちょっとヤバいヤツ”を演じているのだ。もし、このコントを見て、「デモに参加するような人間はこんなヤバいヤツばっかり」だと思い込む人がいるとすれば、それはそもそもデモ活動そのものに対して少なからず偏見を抱いているような人物だろう。

それよりも、個人的に気にかかっているのは、後半のくだりである。

デモ活動とは、個人では社会に対する発言力を持たない人々が、国や企業のような大きな組織に対抗するための手段である。一人一人が団結して集団になることによって、組織に対抗し得る力を獲得するのだ。しかし、その力が間違った方向へ向かってしまうと、とんでもない状況を招いてしまう危険性もある。『スパイダーマン』の名セリフにもあるように、【大いなる力には、大いなる責任が伴う】わけである。このコントの後半では、吉住の演じる人物の要求を満たすために、デモ活動に参加している集団の力が一介の夫婦へと向けられてしまう。ここに肝を感じる。権力を持つ組織に対抗するために作られた集団であったとしても、その矛先を誤れば、強大な力を持つ組織と成り得るのである。とどのつまり、権力に対抗するための力を持つのであれば、その力をきちんとコントロールしておくれよ、という小市民的なメッセージが組み込まれているのである……か、どうかは分からない。所詮は私が今の段階で個人的に感じただけのことなので、それを正解だと決めつけるような烏滸がましい真似は出来ない。それになにより、吉住という芸人の奥深さは、そんなものではないだろう。少なくとも、2022年のR-1決勝で彼女が披露していたコントを覚えていれば、とてもそんな軽率なことは言えない筈だ。それほどに凄まじいネタであった。そのコントのタイトルは……。

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ぼくらが荼毘に付す理由

四ヶ月に一度ぐらいの頻度で「もう死んでもいいんじゃないかな」という感情に襲われる。ちょっとした失敗をやらかしてしまったときに、自分自身の愚かさ至らなさに呆れ果ててしまって、そういう状態になってしまう。普段なら、大して気にしていないような失敗であったとしても、そういう状態になってしまう(そもそも心のコンディションが良くない日なのだろう)。当然のことながら、そういう状態になったからといって、すぐさまホームセンターへとナイフやロープを買いに行くわけではない。ごくごく当たり前の日常を送っている中で、「死ぬ」という選択肢が視界の隅の方に見えているだけに過ぎない。ただ引き金に指を引っ掛けて遊んでいるようなものである。こういう状態のときに考えるのは、死に方である。「死」に対する不安はないが、出来ることなら痛みの生じる死に方は選びたくはない。実行に移すとすれば室内だろう。屋外で死のうとしているところを他人に見られたくはない。死後のことは考えない。「死」イコール「無」だと思っているので、そんなことを気にしたところで、何の意味もないだろう……と、ああだこうだと考えながら、じわりじわりと「死」の解像度を上げていく。ところが、半日ほどが経過して、作業に集中したり他人と他愛のない会話をしたりするうちに、そういった気持ちは何処かに消えてしまう。あんなにも「もう死んでもいいかな」と思い詰めていたはずなのに、そんな感情なんて元から無かったかのようになっている。要するに、単なる気の迷いでしかないわけだ。ただ、こういう状態に陥ってしまった時には、そんな風に客観的思考を働かせられない。そして、不意にやってくるそういった状態の時に、人はうっかり自ら「死」を選択してしまうのだろう。迂闊に飲み込まれないように気を付けていきたいものである。もっとも、どのみち病気や事故のような外的要因で死ぬことは決まっているのだから、いっそ自分自身のタイミングでいこうという気持ちも分からなくもな……おっと。どうやら今日もコンディションが良くない日のようである。