白昼夢の視聴覚室

犬も食わない

まとまりもなくとりとめもない話。

先日、Twitterのタイムラインに、漫画家の幸村誠氏のツイートが流れてきた。

なんとなしに読んでみると、どうやらEテレで放送中の『プラネテス』について何かしらかの言及を受けてのリアクションのようだった。幸村氏は『プラネテス』の原作者で、オリジナル要素の多いアニメ版において、どれほどの責任が課せられる立場にあるのかは分からないが、自分も関わっている作品の話題なので、なにかしらか反応しなくてはならないだろうと思い至ったのだろう(※数日後、幸村氏は自身の漫画原作についての話である、と補足した)。

一体、どのようなことを言われていたのか、気になったので『プラネテス』でツイート検索を行ってみた。問題のツイートはすぐさま見つかった。どうやら、過去にJAXA宇宙航空研究開発機構)に務められていて、現在も関わりを持たれている方が、自身のアカウントで「『プラネテス』の影響で宇宙に対して誤解している方が多く、実際に宇宙をやっているプロとして迷惑」という旨のツイートをし、それが拡散され、原作者の元へと届いてしまったらしい。

これに対し、私は「どうして、そんなことを世界に発信しようと思ったのか」「自分の言葉が世界中の人に見られるという意識がないのか」と、氏のツイートに対して言及するツイートを打とうとしたのだが、ふと思いとどまった。今から世界に発信しようとしていたツイートに対する反論が浮かんできたからだ。「そんな偉そうなことを言っているお前自身は、世界中から言及されたとしても、堂々と胸を張れるような意見を発信しているのか?」。

Twitterの利用方法は人によって違う。自らを売り込む表現の場にしている人もいれば、日々のなんでもない出来事を言語化しているだけの人もいる。思想を発信する場にしている人もいるし、自らを支持するファンたちに有り難い言葉を投げかけるコミュニケーションの場に使っている人もいる。それぞれに使用方法が違っていれば、その言葉に対する責任への意識も千差万別だ。それなのに、こうして話題を集めているツイートの発信者に対してのみ、イチ表現ないしイチ主張として絶対的な責任を求めるというのは、どうにも求める側にとって都合が良すぎるように思う。

こういう話になると、「立場のある人間なのだから」とか、「社会的地位のある人間なのだから」とかいうような理由を付けたくなってしまう。確かに、氏がJAXAに務められていたという実績がツイートに説得力を持たせているのは事実だが、それはなんだか後付けみたいな気がしないでもない。今回のツイートが拡散される前から、くだんの人を認識していた人間がどれほどいるのか。そもそも氏はJAXAでどの部署に身を置いていたのか。『プラネテス』という作品について言及した際に説得力を持てるような実績をお持ちになられているのか。みんなどれほど把握したうえで糾弾しているのか。

とはいえ、「批判をするな!」ということになると、また話が極端でよろしくない。インターネットの利用者が限られていた十年以上前ならまだしも、スマホの流通とともにSNSの利用が一般的になった現代社会において、イチ個人の放言だから……という理由で看過されても問題はない、などという考え方もまたナンセンスだ。

ただ、このところ、政治家や思想家、あるいは国家や大企業の公式のようなアカウントじゃない、一介の個人によるアカウントのツイートを踏み台にして、大多数が自らの意見を主張しまくっている状況が、どうも個人的に落ち着かない。今回の件に対しても、実にいろいろな人たちが自らの意見を主張し、そのツイートの説明責任を要求している。意見を主張している側にしてみれば、単純に「分からないから説明しろ」なのだろうが、それを食らっている側にしてみれば、何の関りも持ったことのない連中が一斉にそういった類のことを言ってくるのだから、たまったもんじゃない。

これと似たような状況を、私も昨年末に見舞われた。『THE W』において、Aマッソ・天才ピアニストを抑えて、オダウエダが優勝をかっさらった状況について、『M-1グランプリ2020』でのマヂカルラブリーの優勝と状況が似ている、となんとなしにツイートしたところ、多数の反論を寄せられたのである。否、それは反論とも呼べない程度の、「違うだろ」「そんなわけないだろ」といったような単なる否定であった。ああいう空気に飲まれてしまうと、もう何も言いたくなくなってしまうものである。ちなみに、彼らに主張は、概ね「マヂラブは爆笑をかっさらっていたが、オダウエダは違う」というものだったのだが、それでも票が割れた理由を考えるべき案件なので、そもそも何を言っているのかという話だったのだが。

この時、私は思ったのである。「私には私の発言について責任を持つ必要性が確かにあるのかもしれないが、だとすれば、私に対して無秩序に否定を投げかけてくる彼らにもまた、その言葉の責任を取るべきなのではあるまいか」と。そう思ったにもかかわらず、また自分の専門外の話にいっちょ噛みしようとしていたのだから、実に恐ろしい。無意識に烏合の衆の中へと飛び込んで、ツッコミとしての責任が薄い状態で何か意見をして、仲間内から持て囃されようという惨めな欲望は、油断すると噴き出してくる。というわけで、今後、このようなことをあまりやらないように、なるべく自戒していきたいと個人的に思ったという話である。「それでもツッコミは必要だ!」と思われる方は、そのまま続ければいい。そこに新しい意見が生まれる可能性もあるし。ただ、自分はちょっと控えようと思う。責任感よりも欲望の方が強い気がするから。今回の記事は、いわばその表明である。またやりかねないけれど。

……しかし、実際問題として、SNSにおける発信の責任とそれを追及する責任については、いずれ明確にされなくてはならない状況になりつつあるように思う。北村・呉座の一件とか……って、またいっちょ噛みしようとしてしまった。危ない危ない。