白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

『読む余熱』第二号について

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

先月、配信が開始されました『読む余熱』第二号において、テキストを寄稿させていただきました。今号の特集は「大好き!テレビバラエティ」ということで、テレビ番組よりも芸人のネタを愛でたい人間としては些か厳しいテーマではありましたが、脳味噌をこねくり回しに回して、今の私が最も好きなバラエティ番組『テレビ千鳥』より、特に印象に残っている企画を三つほど紹介させていただきました。いずれもDVDに収録されている回なので、本書をきっかけにそれらを視聴していただけますと幸いです。対して、既に番組(ないしDVD)をご覧になられている方には、「ああ、分かるなあ……」と共感してもらえるような内容にしたつもりですので、いずれにしてもご購読いただけますと非常に有り難い……と、担当者が申しています。たぶん。

こんな私を筆頭に(amazonで検索すると私の名前が最初に表示されるのです。そんなネームバリューは私にはありませんから、何かの間違いだと思っています)、飲用てれびさん、児島気奈さん、ヒャダインさんが寄稿されています。飲用てれびさんは『あちこちオードリー』における虚実と本音の狭間にある“本音のようなもの”の面白さについて、児島さんは『タモリ倶楽部』におけるタモリの嘘の無さとそれに近い雰囲気を漂わせているとある中堅芸人について、ヒャダインさんは『ゴッドタン』『有吉の壁』『全力!脱力タイムズ』などの番組を挙げながら近年のテレビに対する思いについて、それぞれ書かれております。ちゃんと軸のあるテキストの数々を眺めていると、自分の存在の耐えられないほど軽い文章と肩を並べてしまっていることが、なにやら申し訳ないような気持ちになってきます。嘘ですが。特に飲用てれびさんの文章は読み応えバツグンで、流石!の一言。テレビをテーマにしたコラムというと、どうも俗っぽくなりがちですが、飲用てれびさんの文章は常に華麗で驚かされます。

というわけで、今号も過去二回に負けず劣らず上出来!なのですが、感覚としてあんまり話題になっていないような印象を受けます。思うに、過去二回が否が応でも議論が白熱する特定の賞レースをテーマにしていたのに対し、今号は「テレビバラエティ」というざっくりとしたテーマだったことが、あまり読者に響いていない理由なのではないでしょうか。……なので、次号は何かと話題の『キングオブコント2021』をテーマにすればいいのではないでしょうかね……と、ここでこっそり言ってみたりして(←直接、担当さんに、話を切り出す勇気がないヘタレ)。

ラーメンズと差別と

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

皆さんはラーメンズという芸人をご存知でしょうか。ラーメンズ多摩美術大学の同級生だった小林賢太郎片桐仁によって1996年に結成されました。コンビが結成された当時、若手芸人の多くはテレビでの活躍を目指していましたが、バラエティ番組での立ち振る舞いを得意としなかった彼らは舞台を中心に活動。単独公演、ソロ公演、演劇にユニットライブなど、多様なスタイルで活動していましたが、2020年に小林賢太郎が表舞台での活動からの引退を表明。コンビは事実上の解散となってしまいました。

このラーメンズのコントに『高橋』というネタがあります。2001年に開催された第8回単独公演『椿』の中で演じられました。現在はYouTube上で無料公開されております。興味がありましたら、ご鑑賞いただければと存じます。

『高橋』は二人の男性が待ち合わせして、お互いに声を掛け合う場面で幕を開けます。

「おう、高橋」
「おお高橋」
「あれ? 高橋は?」
「まだ来てない。もうすぐ来るんじゃないかなあ、高橋と一緒に」
「じゃあ高橋と高橋はどうした?」
「あ、あいつら来れないって」
「マジで!? おいおい、じゃあ高橋と高橋抜きで高橋に行くのかよ」

このやり取りを受けて、観客は気付きます。このコントで描かれている世界の人々は、どうやら全て“高橋”であるということに。だからこそ、二人は“高橋”という名字だけで、それぞれが別人であるということをしっかりと理解できています。この、観客が理解している常識の世界と、舞台上で繰り広げられる「私たちにとっては非常識な世界での常識的な会話」がもたらす歪みが、笑いへと昇華されます。

ですが、コントが進行するにつれて、観客は更に新しい事実に気付かされます。

「実は、高橋に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なんだよ、改まって高橋」
「俺……親が離婚して、名字が変わるんだ!」
「ええ!」
 (略)
「今までありがとう。高橋には高橋だけで行ってくれ。俺はもう一緒に過ごせないけど、高橋同士、仲良くな……」

なんと、この世界にも、高橋以外の名字が存在していたのです。そして、どうやらこの世界では、「高橋という名字ではなくなってしまった人間は、高橋とは一緒にいられない」とされている、つまり高橋じゃない人間は差別されているようなのです。事実、この後の展開では、「高橋以外が受ける非高橋差別」という台詞も飛び出します。元々のナンセンスな設定に加え、二人の絶妙に誇張された演技の面白さもあって、この辺りのシーンでも笑いが生まれていますが、高橋以外の人間がどのように扱われているのかを想像すると、とても笑っている場合ではありません。

また、このコントで重要なのは、差別を受ける理由が名字にあるという点です。見た目や性格などのような個人の性質によるものではなく、ただ名字が違うというだけで迫害されているのです。無論、個性を理由に迫害されることも、決してあってはならないことですが、それでも当人の意識次第で対応することも出来ます。だが、名字に関しては、どうにも変えようがありません。それは自らの出自、生まれ故郷や祖先にまでさかのぼった、脈々と流れる血を起因とした差別の存在を匂わせます。果たして、高橋による高橋以外への差別には、どのような歴史が合ったのでしょうか……。

これらを踏まえた上で、このコントのオチを見てみると、より一層うすら寒いものを感じさせます。差別について考えてみるとき、この『高橋』のことを思い出してみて、そっとその視点に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。自らの意見の正しさを主張するために、意見の反する相手のことを「高橋じゃないヤツ!」と糾弾してしまわないように。

(今回の記事は2019年10月にnoteで公開したものを再構築しました)

野次馬と責任とテンダラー

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

突然ですが、皆さんは野次馬になったことがありますか。自分の身近なところで、何か事件や事故が発生したときに、その場で困っている赤の他人に救いの手を差し伸べることなく、一定の距離を保ちながらボンヤリと様子を伺うような経験はありますか。私はあります。何度もあります。良くないことだとは分かっているのですが、なかなか好奇心を上手く抑えることが出来ず、無責任な第三者としての立場から、ついつい事態の全貌を目に焼き付けようとしてしまいます。

ただ、野次馬といっても、決して当事者のことを嘲笑するような気持ちにはなりません。むしろ同情しています。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。こんなことが起きてしまったら、後が大変だろうな。自分もこんなことにならないように気を付けなくてはならない……と。あくまで助けようとはしないだけで、心の中ではちゃんと心配しています。とはいえ、それは果たして、本当に心配しているのだろうか、という疑念も捨てきれません。心配する素振りを見せることで、ただの野次馬になってしまっている自らの愚かさから目を背けようとしているだけのような気もします。

野次馬といえば、古典落語の『たがや』を思い出します。生前、立川流家元・立川談志は『たがや』について、「この落語の本質は野次馬の無責任ではないか」と語っていたそうです。大勢の人でごった返している両国橋でたが屋と侍が揉め出して、とうとう刀を抜いての大立ち回り。対するたが屋は丸腰ながらも大健闘しますが、最後は侍に首を斬られてしまいます。その首が、斬られた拍子にポーンと空高く飛び上がると、それまでたが屋を応援していた野次馬たちの中から、「上がった上がった上がった!たぁ~が屋ぁ~!」と、まるで花火が打ち上がったときのような掛け声が……。この、状況に応じてあっさりと手のひらを返す無責任さこそ野次馬の本来の姿で、『たがや』はそれを浮き彫りにしたものである、とのこと。

それを踏まえると、話題のニュースに対してSNSにおいて持論を発信する行為もまた、野次馬的といえるのかもしれません。その瞬間、確かに私自身は、お笑い評論家などというトンチキな稼業を名乗っている者として、そのニュースに関する情報を真剣に発信しているつもりにはなっていますが、それはやはり過激に糾弾されない立場だからこそ言えること。これがもし、なにかしらかの研究で知られる著名な学者だとか、ある地域においては多大なる権力を持つ政治家だとか、創作物で大衆を魅了する作家・芸術家だとかのような、世間に影響力のある立場であった場合には、無責任で自己満足の域を出ない持論など、そう易々と世間に提示できるわけがありません。それこそ即座に批判の的となったことでしょう……無責任な野次馬たちの。

もうひとつ、野次馬といえば思い出すのは、テンダラーのコント『殺人現場』。初出は不明ですが、彼らが『爆笑オンエアバトル』へ初めて出場した時に、このネタを披露していたようです。現在は2008年4月に行われたベストネタライブの模様を収録した『$10 LIVE ベストコントヒッツ!?』にて視聴することができます。そういえば、今や漫才師としてのイメージがすっかり定着している彼らですが、当時はむしろコントをメインに活動するコンビでした。関西ではやはり漫才の需要の方が高いのかしら。

舞台は路上で起こった殺人事件の現場前。立入禁止と書かれている札を掛けたロープが張られています。ロープの前には警察官(白川)が一人。一般人がうっかり立ち入らないように、見張り役として目を光らせています。と、そこへ偶然にも通り掛かったのは、ランドセルを背負った好奇心旺盛な小学生の少年(浜本)。何を言うでもなく、さりげなくロープの内側に入り込もうとします……が、すぐさま警察官に止められてしまいます。ミッション達成ならず。実は少年の自宅は事件現場を抜けた先にあり、ここを通り抜けないとかなり遠回りをすることになるのです。というわけで少年は、ありとあらゆる手段を駆使して警察官の目をかいくぐり、ロープの内側への侵入を試みます。

「警察官に怪しまれないようにさりげなくロープの内側に入るためにはどうすればいいのか?」というお題に対して様々な回答を提示する、大喜利スタイルのコントです。シャツのポケットに忍ばせた昆布を警察手帳に見立てて刑事の振りをしたり、ロープに銭湯の暖簾をかけて番台を抜けるようにくぐったり、とにかく視覚的な面白さに満ち溢れています。誰が見ても面白い、明るく楽しい愉快なコント。しかし終盤、捜査本部から流れてきただろう無線連絡によって、その場の空気は一変。なんと、その殺人事件の被害者は……。

このコントに登場する少年は、厳密にいえば野次馬ではありません。ですが、仕事を全うしている警察官に対する態度は、まさしく野次馬そのものです。身勝手で煩わしくて無責任。責任がないからこそ、事件に対して無作法な態度を取ることが出来るわけですね。ですが、いざ無責任のハシゴを外されてしまう……その事件と自分自身が無関係ではなくなってしまう……と、一気に状況は引っ繰り返ってしまいます。その立場は意外と脆弱で危ういです。だからこそ、たとえ野次馬とはいえども、野次馬らしく、あくまでも無責任な者としての立場を自覚しなくてはなりません。

このような話を聞かされると、「いや、私たちにも、自由に意見を主張する権利がある」と主張される方もおられるのではないかと思われます。無論です。自由です。ですが、自由には責任がつきものです。今や、有名無名を問わず、自分の意見を主張できる時代だからこそ、誰もが言葉に責任を背負う義務を持っている筈です。あなたが今、まさに野次馬となって罵詈雑言を浴びせている相手は、数年後のあなた自身なのかもしれませんよ。「そんなことは有り得ない」と思われるかもしれませんが、十年以上前に演じた未熟な時代のコントの台詞で大きな仕事を解任させられた演出家だっているのですから、あなたの今の発言が数十年後に批判されてしまう可能性だってゼロじゃないでしょう。だからこそ皆さん、ちゃんと自分の言葉には責任を持たないと、いつ首を(スパッ)

上がった上がった上がった! すぅ~が家ぁ~!

アンジャッシュはもう取り返しがつかない

どうも、すが家しのぶです。全てを知っているようで知らないことばかりです。

ピタゴラスイッチ』を手掛けたことで知られる佐藤雅彦氏の文章を読むのが好きで、新刊が出るたびに購入しています。人間の在り様をシャープな視点で切り取っているのに、柔らかな語り口で親しみやすく、読むたびに「こういう文章を書くことが出来たなら……」と羨望の目で見てしまいます。もっとも、何も考えずに書き始めて、思うがままに書き殴るような私のスタイルでは、佐藤氏のような文章はとても書けそうにありませんが。腰を据えられない性質なのです。 

氏の単著の中でも特に好きな本が『毎月新聞』です。『毎月新聞』は毎日新聞の片隅で一ヶ月に一度のペースで連載されていたコラムを一冊にまとめたもので、内容もさることながら、実際の新聞記事をそのまま再現したようなデザインがたまりません。現在は文庫版・電子書籍版が手に入りやすいようですが、個人的には、これまた実際の新聞紙に近づけたような大きいサイズの単行本版をオススメします。

この『毎月新聞』に書かれたコラムの中で、強く印象に残っているものがあります。タイトルは「取り返しがつかない」。2002年8月21日に発行された毎日新聞に掲載されたテキストです。ある日、佐藤氏の元へ、高校の同窓会から名簿が送られてきます。そこには同級生の名前や現住所、勤め先などが記されていました。名簿を眺めながら、当時の仲間たちの「今」に思いを馳せます。しかし、それらの名前をあいうえお順に見終って、最後の1ページを見た瞬間、佐藤氏は息を呑みました。最後の1ページは「死亡者」の欄だったからです。そして、そこにはかつて、仲の良かったS君の名前がありました。それも、亡くなってから、けっこうな年月が経過していました。その時の心境を、佐藤氏は次のように書き記しています。

Sの死が取り返しがつかないことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返し様がないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きてきたことである。別の言い方をすれば、僕はそのSの存在があるものとした"バランス"で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。(『毎月新聞』99pより)

この哀しみを伴った文章を思い出すたびに、まるで紐づけされているかのように脳裏に浮かんでくるコントがあります。アンジャッシュの『家が燃えています』です。2011年に開催された単独ライブ『五月晴れ』の中で披露されました。

仕事を終えたサラリーマンの上司(児嶋)と部下(渡部)が、居酒屋で乾杯を始めます。二人の会話によると、どうやら上司は一度家に帰ったものの、飲みに行きたくなったため部下を誘って居酒屋へとやってきたようです。何処にでもあるようなごくありふれた光景ですが、そこへ不穏なナレーションが。児嶋一哉、38歳。ジンリキ商事・営業部・第二課課長。この男、さきほど家を出る前にタバコの火を消し忘れ、自宅で火災が発生。今、家が燃えています」。とんでもない状況ですが、二人がその事実を知ることはありません。当然、飲み会は中止されることのないまま、滞りなく進んでいきます。しかし、その間にも、着実に家は燃え続けます。

このコントの肝となっているのは、自宅が燃えているという状況を知らない上司の発言が、自宅が燃えている(或いは自宅を燃やしたことのある)状況の人間ならば有り得ないような内容になっている点にあります。例えば、以下のように。

児嶋「お前、今期の目標スローガン、どうしたんだよ」
渡部「あー、僕は【地域密着、細かな気配り、大胆な戦略】にしました」
児嶋「……は? なんか何が言いたいかよく分かんねぇよ」
渡部「課長はスローガンどうしたんですか?」
児嶋「俺はずばり、【完・全・燃・焼!】」
 ナレ「家が燃えています」

もしも自宅が燃えていると知っていたら、こんなことは言えません。

これらのような上司の愚鈍な発言と、その度に「家が燃えています」と現実を叩きつけるナレーションによって、このコントは笑いを生み出しています。ですが、それはあくまで、観客である私たちが「上司の家が燃えている」という状況を理解しているからこそ、成立するものです。実際にはこんなナレーションが流れることはありません。だからこそ、このコントは残酷なほどに現実です。先の佐藤氏の表現を応用するならば、この上司は「自宅があるものとしたバランスで生きている」に過ぎないからです。このコントを観ながら笑っている私たちにとっても、これは決して他人事ではありません。今まさに、愚鈍な私たちの知らないところで、何かとんでもないことが起きている可能性もあるのですから。

ちなみに、この『家が燃えています』というコントは、前述した「家が燃えています」を中心とした前半パートと、部下が上司の男らしい振る舞いに見惚れて恋に落ちてしまうことがナレーションによって予告される「同性愛に目覚めます」を中心とした後半パートの二部構成になっています。

現在進行形で起こっていることを知り得ない上司の歪んだ“バランス”を笑いに昇華していた「家が燃えています」パートに対し、「同性愛に目覚めます」パートは、これから起こり得る未来を提示することで観客に「いつ部下が同性愛に目覚めるのか」を期待させる、割とありがちな仕組みになっています。その前時代的な設定も含めて、やや「家が燃えています」パートに比べて見劣りしていると言わざるを得ません。……もっとも、設定に関しては、今から十年前に行われた単独公演で披露されたネタなので、致し方ないことではあるのですが。もしも今、アンジャッシュが改めて『家が燃えています』の仕掛けを取り入れたコントを作ったとしたら、それはどんな内容のモノになるのでしょうかねえ。

償いと赦しとアンガールズ

どうも、すが家しのぶです。大変な時代に生きております。

三十代半ばにして、突如としてさだまさしブームが到来しました。Spotifyさだまさしのコンサートでのトークをまとめたベスト盤が配信されており、なんとなしに聴いてみたところ、すっかりのめり込んでしまいました。これがもうただごとじゃないぐらいに面白い。ひとつひとつのエピソードトークの精度が高く、笑いどころが随所に散りばめられていながら、登場人物たちの人間臭さもしっかりと反映されていて、まるで新作落語のような趣きを見せます。さだ氏が高校・大学と落語研究会に所属していたことも、この圧倒的な完成度に貢献しているのでしょう。

これをきっかけに他のライブアルバムも聴くようになったのですが、トークベストとは違って、そちらにはちゃんとさだの歌声も収録されております。いちいち飛ばすわけにはいきませんので、併せて聴きます。すると、だんだんと歌の方も、しっかりと聞き入るようになってしまいました。さだまさしの曲といえば『精霊流し』と『関白宣言』ぐらいしか知らず、それらも知識として理解している程度でしかなかったのですが、日本の原風景を思わせるような歌詞と繊細なメロディがあまりにも美しく、気が付くと、すっかり心を持っていかれてしまいました。もっとも、そちらが本業なのですから、当たり前といえば当たり前の話なのですが。

とはいえ、まだまだライブアルバムを中心にチェックしている段階のため、聴く曲は自ずと代表曲に限られます。『雨やどり』『案山子』『道化師のソネット』……完全なるにわかファンですね。

それらの中に『償い』という曲がありました。

不慮の事故によって罪のない人を死に至らしめてしまった青年“ゆうちゃん”が、「償いきれるはずもないが」毎月の給料を被害者の妻に送金し続けていると、事故から七年目の年に初めての便りが送られてきて……そんな物語がゆうちゃんの事情を知る友人の視点から描かれています。この曲名を目にした私は、なんだか懐かしい気持ちになりました。というのも、今から二十年ほど前に、この曲が世間から注目される出来事があったからです。

あれは2001年の春のこと。電車内で四人の少年たちが泥酔した男性と口論になり、男性からの暴行をきっかけに、意識がなくなるまで暴行を加え、放置する事件が発生しました。その後、男性は死亡。後日、四人の少年たちは出頭し、うち二人が傷害致死罪に問われて逮捕されました。翌年二月、東京地裁にて二人に実刑判決を下した裁判官が、判決理由を述べた後で、この『償い』の話を始めたのです。「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と二人に語ったことは、当時大きな話題となりました。この事件をきっかけにして、私も『償い』という楽曲のことを知ったと記憶しています。

『償い』は赦されるはずもない加害者の命がけの謝罪を描いた曲です。何の反応もないままに、それでも賠償金を郵送し続ける辛さはとても想像できるものではありません。ですが、それは被害者にとっても、同様のことがいえます。加害者の気持ちを理解し、赦してあげようという慈悲の心を持っていたとしても、心根では赦しきれない……そんなこともあるのではないでしょうか。

アンガールズのコント『友情』では、そんな被害者の理性ではどうすることもできない複雑な感情が描かれています。『友情』は2016年7月に行われた単独ライブ『~ゴミにも息づく生命がある~』の中で披露されました。

ベンチの上に置き忘れられていた田中の財布を、田中の親友である山根が出来心から自分のトートバッグに入れてしまいます。その姿を偶然にも目撃してしまった田中は、山根の元へと駆け寄り「今、俺の財布そこに入れた?」と詰め寄ります。当初、山根はシラを切ろうとしますが、田中に「今すぐ返したら赦すから!二十年の友達をさ、こんなことで無くしたくないから!」と説得され、すぐさま財布を返します。山根は自らの迂闊な行為について反省して落ち込み、それを田中が慰めます。これで二人の関係は元通り……に、なる筈でした。すべてを無かったことにして、バドミントンで遊び始める二人。ですが、山根がスマッシュを打ち込むたびに、田中の表情が曇り始めます。そして自らの本当の気持ちに気付くのです。

「ごめん!山根!さっきの全然赦せてないオレ!」

それでも二人は親友であることを続けるために、色々と試行錯誤を重ねます。それでも上手くいきません。とうとう二人は絶望して、友達関係を解消してしまいます。そこで田中がこぼした「友達の始まりに理由なんてないなあって思っていたけど、終わりには理由があるんだなあ」の一言の重みはたまらないものがあります。アンガールズという特異なコンビによって演じられているからこそ、このコントはナンセンスな笑いに満ち溢れたものになっていますが、その根底にあるテーマはとてつもなく重たく、私たち自身に圧し掛かります。果たして、私の友人が私の財布を盗もうとしているところを見かけて、その罪を赦そうとしたとき、私は友人のことを本当に心の底から赦せるのでしょうか。

さだまさしは『償い』のライナーノーツで、山本周五郎の短編『ちくしょう谷』からの一節を引用しています。「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」。むしろ人間は、そう簡単に人を赦せない、人を赦すことの出来ない生き物なのかもしれません。

最後に余談ですが、『償い』という曲はさだまさしの知人の実話を元に作られた曲だそうです。ただ、その知人は、事故の加害者ではなく被害者。つまり、さださんは被害者の妻から加害者の話を聞かされて、そこから加害者側の視点で曲を作ったわけです。アーティストとしてのさだまさしの凄みを感じざるを得ないエピソードですね。

“オウム返し”とうるとらブギーズ

どうも、すが家しのぶです。良い思い出に浸りがちな年齢です。

古典落語に「他人から教わったことを再現しようとして失敗する」という手法があります。有名な演目でいうと『時そば』がそうですね。屋台の立ち食いそばで店のことを褒めていた男が最後の最後で勘定を誤魔化している様子をこっそり眺めていた男が、自分も同じことをやってみようと試みて、まんまと失敗してしまいます。余談ですが、この『時そば』は上方落語の演目『時うどん』を江戸噺に移植したもので、『時うどん』では兄貴分が感情を誤魔化している様を見た弟分が感動して自分も真似をするという設定でした。個人的には『時うどん』の方が流れを自然に見せられているような気がするのですが、どのような意図があって改変されたのでしょうか。いつか調べてみますかね。

この『時そば』以外にも、言葉遣いの悪い八五郎がご隠居から子どもの褒め方を教わる『子ほめ』、出入り先のお店の婚礼に招かれた松さん竹さん梅さんの三人がご隠居から余興を教わる『松竹梅』、ご隠居から武人・太田道灌の逸話を聞いた八五郎が同じ方法で友人を追っ払おうとする『道灌』など、同様の手法を取り入れた演目は枚挙に暇がありません。この手法は落語の世界で“オウム返し”と呼ばれていて、演じ分けや声量などといった落語の基本を学ぶための前座噺によく使われています。もしかすると、「正解」と「不正解」を比較する構成がシンプルで、技術の至らない前座でも、観客が噺の内容を理解しやすいことも重要視されているのかもしれませんね。

「正解」と「不正解」を比較する手法は、漫才コントにも応用されているともいえます。”オウム返し”のように漫才コントは「正解」を提示しませんが、多くの観客は「正解」を理解しています。例えば、ファーストフード店を舞台としている場合、店員がどのようなマニュアルで接客を行うかをなんとなしに認識しています。自分の中に「正解」があるからこそ、目の前で繰り広げられる「不正解」の可笑しさが分かるわけです。

ところが、この”オウム返し”に一石を投じるコントが、突如として生み出されてしまいました。それがうるとらブギーズの『迷子センター』です。初出は不明ですが、『キングオブコント2019』決勝進出後の2019年12月に行われたベストライブで披露されたものがソフト化されています。自身のYouTubeチャンネルでも公開されていますが、画質が芳しくないので、個人的にはDVDでの視聴をお勧めしたいところですね。

舞台はデパートの迷子センター。従業員(八木)の元へ、紙袋を手にした男性(佐々木)が慌てふためきながらやってきて、「すいません!すいません!すいません!あの、息子が迷子になっちゃったみたいで!探してほしいんですけども!」と懇願します。そこで従業員は、館内アナウンスで迷子になった子どもを呼びかけるため、その子の見た目の特徴を父親に訊ねます。しかし、その子のビジュアルは、どうやらとてつもなく個性的。従業員は困惑しながらも父親の語る息子の特徴をメモに書き記します。「息子さん、すぐ見つかると思います」。父親にそう言いながら、従業員はメモの内容をそのままアナウンスしようとするのですが……。

前半は父親が説明する息子のハイセンスな特徴がボケになります。名前、髪型、着ている服、履いている靴に至るまで、実にキョーレツです。そんな父親が話した息子の特徴が、後半ではそのまま従業員によって読み上げられます。前半と後半でその内容にズレが生じることはありません。先の”オウム返し”とは違い、そのままの内容が繰り返されます。ですが、前半と後半では、従業員の様子に変化が生じます。前半では父親が語る息子の特徴に驚きながらも的確にメモを取っていましたが、後半では、それを丁寧にアナウンスしようとするたびに笑いが止まらなくなってしまうのです。この従業員の姿に、前半で笑っていた観客がまた改めて笑い始めます。これがスゴい。

つまり、この『迷子センター』というコントは、前半と後半で同じボケを使っていながら、受け手の態度を変えることで、まったく新鮮な笑いへと昇華されてしまっているのです。こんなコント観たことがありません。とんでもないコントです。もっというと「笑いが止まらなくなる」という展開が絶妙ではありませんか。同じ映画を観るときでも、二度目三度目では初見時に気付けなかった物語の深みを発見することがあるように、改めて噛み締めることで、息子の特徴が持つ可笑しみの深さをよりしっかりと気付いてしまう、この絶妙なリアリティ。更にいえば「迷子センター」という適度な緊張感が張り詰める舞台設定も素晴らしいです。

というわけで、"オウム返し"だなんだといっておりましたが、今回はとにかく「うるとらブギーズの『迷子センター』がスゴい!」ということを言いたかっただけの記事でした。正直、ここ数年の間に見てきたコントの中で、一番の衝撃でした。是非とも、是非ともご覧下さい。

2021年7月の入荷予定

14「バカリズムライブ番外編「バカリズム案8」

どうも、すが家です。映像素材が無いためなのか、DVD作品のリリースが激減していますね。とはいえ配信イベントは行われているので、単に収入に繋がるような映像が見つかっていないだけなのかもしれません。厳しい。そんな状況下でリリースされるのが、およそ八年ぶりとなるバカリズムライブ番外編「バカリズム案」のDVDであります。昨年十二月に無観客状態で行われた配信公演の模様を収録しているそうです。……これはちゃんとソフト化されるんやなあ。

生と死とシソンヌ

どうも、すが家しのぶです。皆さんは大事な人の最期を看取る覚悟がありますか?

妹を事故で亡くしてから今年で九年が経ちました。あの日のことは今でも昨日のことのように思い出せます。週末の夜、いつものように自室で過ごしていると、家族の慌てふためく声が聞こえてきたので、どうかしたことかと部屋を出てみると、血相を変えた姉が「妹が息をしていないから救急車を呼んだ」と一言。自分も慌てて父母の元へと向かうと、青ざめた表情で横たわっている妹の姿が。それからしばらくして救急車がやってきて、意識の無い妹と父母はともに病院へ。姉と私は自宅で待機することに。一時間ほど経過したところで母から電話があり、「とにかく来てくれ」といわれ、私だけが自分の車で病院へと向かいました。そこで妹の死を告げられたのです。

元々、妹には持病があり、何の前触れもなく意識を失ってしまうことが、過去に何度かありました。それで病院に運ばれたことも一度や二度ではありませんでした。だから、その日も私は「またいつものやつかな」と、割と冷静に状況を受け止めていました。しかし妹の意識が戻ることはありませんでした。ほんの一時間前に下らない会話を交わしていた妹は、本当に何の予兆も見せることなく、あっという間にこの世を去ったのでありました。その後のことはあまり記憶に残っていません。妹の遺体が運ばれてきて、通夜があって、葬式があって……心身ともに疲労困憊の状態で迎えた月曜日がとても辛かったことを覚えています。

それからしばらく妹の残像のようなものを目にするようになりました。当時は、自分の中で妹の死を受け入れられていないのか、と不安を覚えましたが、今になって考えてみるに、この時間には妹はいつもここにいて、この時間には妹はこんなことをしていて……そんな微細な記憶が、実際の景色を上塗りしていただけに過ぎないのでしょう。そのうち、妹の残像を目にすることはなくなりました。しかし、そうなると今度は、妹のことを忘れてしまうのではないのかという不安に襲われるようになり始めました。今後、現実では絶対に上書きされることのない妹の生前の姿を、これからもずっと正確に覚えていることは出来るのだろうか、と。

シソンヌのコントに『息子の目覚まし時計』というネタがあります。「キングオブコント2014」で優勝を果たした彼らが、その翌年に敢行した単独ライブ『シソンヌライブ[trois]』の中で披露されました。

朝のリビング。ソファに腰掛けながら、部屋の隅にあるチェストをじっと眺めている女性(じろう)の姿があります。チェストの上にはサッカーボールや野球のグローブ、ミニカーなどのような、いかにも男の子が遊ぶためのような道具が置かれています。そこへ女性の夫(長谷川)がやってきて、「おはよう」と声を掛け、そのまま女性の隣に座ります。「たける、何処にいるんだろうな」「意外と近くにいるかもしれないわよ」「そうかもな」……二人の会話は、それらの道具を使っていた男の子……つまり息子が、行方不明になっていることを表します。

やがて夫は切り出します。「もう……良くないか?」「何が?」「たけるの部屋だよ」。二年前に二人の前から姿を消した息子の部屋は、当時のまま残されていました。でも、もう、そのままにしなくてもいいのではないか、と夫は言うのです。それでも、ひょっとしたら戻ってくるかもしれない。だから部屋をそのままにしておきたい……。そんな妻の意志が語られるよりも先に、二人の会話を止めるかのように目覚まし時計の激しいアラーム音が鳴り響き始めます。本当の夫の目的は、息子がいなくなる前にセットして、そのまま放置されていた目覚まし時計を止めることだったのです。

私はこのコントを初めて目にしたとき、そのあまりにも理不尽な設定に号泣してしまいました。行方不明になった息子の部屋の全てをそのままにしておきたい妻、息子の目覚まし時計の音が周辺の住民にまで被害を及ぼしていることに我慢ならなくなってしまった夫、どちらの気持ちも分かります。でも、何もかもをそのままにして、生きていくことは出来ません。「行方不明」と「事故死」の差はあれど、そのコントのテーマはまさに、依然として妹のことを引きずっていた私の心にあまりにもストレートに突き刺さってしまったのです。

あれから九年。もはや実家に妹の部屋はありません。ただ、妹の私物の多くは、今でも物置で眠っています。とはいえ、それもいつか処分しなくてはならない日が来るのでしょう。あの日、心配していた妹の記憶は、予想していた通りに薄れ始めています。もっと写真や動画を残しておくべきだったと後悔しています。でも、これはもう、どうしようもありません。諦めることにしました。いつまでも引きずっていても仕方ありませんからね。

ただ、シソンヌの『息子の目覚まし時計』を見るたびに、妹の記憶が失われてしまうことへの不安でいっぱいになっていた、あの辛くて苦しい時期のことを思い出します。そして私の心の中にも、あの目覚まし時計の音が鳴り響くのでした。

皆さんの心にもいつか鳴り響く日が来ますからね。ご覚悟を。