白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

アンジャッシュはもう取り返しがつかない

どうも、すが家しのぶです。全てを知っているようで知らないことばかりです。

ピタゴラスイッチ』を手掛けたことで知られる佐藤雅彦氏の文章を読むのが好きで、新刊が出るたびに購入しています。人間の在り様をシャープな視点で切り取っているのに、柔らかな語り口で親しみやすく、読むたびに「こういう文章を書くことが出来たなら……」と羨望の目で見てしまいます。もっとも、何も考えずに書き始めて、思うがままに書き殴るような私のスタイルでは、佐藤氏のような文章はとても書けそうにありませんが。腰を据えられない性質なのです。 

氏の単著の中でも特に好きな本が『毎月新聞』です。『毎月新聞』は毎日新聞の片隅で一ヶ月に一度のペースで連載されていたコラムを一冊にまとめたもので、内容もさることながら、実際の新聞記事をそのまま再現したようなデザインがたまりません。現在は文庫版・電子書籍版が手に入りやすいようですが、個人的には、これまた実際の新聞紙に近づけたような大きいサイズの単行本版をオススメします。

この『毎月新聞』に書かれたコラムの中で、強く印象に残っているものがあります。タイトルは「取り返しがつかない」。2002年8月21日に発行された毎日新聞に掲載されたテキストです。ある日、佐藤氏の元へ、高校の同窓会から名簿が送られてきます。そこには同級生の名前や現住所、勤め先などが記されていました。名簿を眺めながら、当時の仲間たちの「今」に思いを馳せます。しかし、それらの名前をあいうえお順に見終って、最後の1ページを見た瞬間、佐藤氏は息を呑みました。最後の1ページは「死亡者」の欄だったからです。そして、そこにはかつて、仲の良かったS君の名前がありました。それも、亡くなってから、けっこうな年月が経過していました。その時の心境を、佐藤氏は次のように書き記しています。

Sの死が取り返しがつかないことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返し様がないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きてきたことである。別の言い方をすれば、僕はそのSの存在があるものとした"バランス"で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。(『毎月新聞』99pより)

この哀しみを伴った文章を思い出すたびに、まるで紐づけされているかのように脳裏に浮かんでくるコントがあります。アンジャッシュの『家が燃えています』です。2011年に開催された単独ライブ『五月晴れ』の中で披露されました。

仕事を終えたサラリーマンの上司(児嶋)と部下(渡部)が、居酒屋で乾杯を始めます。二人の会話によると、どうやら上司は一度家に帰ったものの、飲みに行きたくなったため部下を誘って居酒屋へとやってきたようです。何処にでもあるようなごくありふれた光景ですが、そこへ不穏なナレーションが。児嶋一哉、38歳。ジンリキ商事・営業部・第二課課長。この男、さきほど家を出る前にタバコの火を消し忘れ、自宅で火災が発生。今、家が燃えています」。とんでもない状況ですが、二人がその事実を知ることはありません。当然、飲み会は中止されることのないまま、滞りなく進んでいきます。しかし、その間にも、着実に家は燃え続けます。

このコントの肝となっているのは、自宅が燃えているという状況を知らない上司の発言が、自宅が燃えている(或いは自宅を燃やしたことのある)状況の人間ならば有り得ないような内容になっている点にあります。例えば、以下のように。

児嶋「お前、今期の目標スローガン、どうしたんだよ」
渡部「あー、僕は【地域密着、細かな気配り、大胆な戦略】にしました」
児嶋「……は? なんか何が言いたいかよく分かんねぇよ」
渡部「課長はスローガンどうしたんですか?」
児嶋「俺はずばり、【完・全・燃・焼!】」
 ナレ「家が燃えています」

もしも自宅が燃えていると知っていたら、こんなことは言えません。

これらのような上司の愚鈍な発言と、その度に「家が燃えています」と現実を叩きつけるナレーションによって、このコントは笑いを生み出しています。ですが、それはあくまで、観客である私たちが「上司の家が燃えている」という状況を理解しているからこそ、成立するものです。実際にはこんなナレーションが流れることはありません。だからこそ、このコントは残酷なほどに現実です。先の佐藤氏の表現を応用するならば、この上司は「自宅があるものとしたバランスで生きている」に過ぎないからです。このコントを観ながら笑っている私たちにとっても、これは決して他人事ではありません。今まさに、愚鈍な私たちの知らないところで、何かとんでもないことが起きている可能性もあるのですから。

ちなみに、この『家が燃えています』というコントは、前述した「家が燃えています」を中心とした前半パートと、部下が上司の男らしい振る舞いに見惚れて恋に落ちてしまうことがナレーションによって予告される「同性愛に目覚めます」を中心とした後半パートの二部構成になっています。

現在進行形で起こっていることを知り得ない上司の歪んだ“バランス”を笑いに昇華していた「家が燃えています」パートに対し、「同性愛に目覚めます」パートは、これから起こり得る未来を提示することで観客に「いつ部下が同性愛に目覚めるのか」を期待させる、割とありがちな仕組みになっています。その前時代的な設定も含めて、やや「家が燃えています」パートに比べて見劣りしていると言わざるを得ません。……もっとも、設定に関しては、今から十年前に行われた単独公演で披露されたネタなので、致し方ないことではあるのですが。もしも今、アンジャッシュが改めて『家が燃えています』の仕掛けを取り入れたコントを作ったとしたら、それはどんな内容のモノになるのでしょうかねえ。

償いと赦しとアンガールズ

どうも、すが家しのぶです。大変な時代に生きております。

三十代半ばにして、突如としてさだまさしブームが到来しました。Spotifyさだまさしのコンサートでのトークをまとめたベスト盤が配信されており、なんとなしに聴いてみたところ、すっかりのめり込んでしまいました。これがもうただごとじゃないぐらいに面白い。ひとつひとつのエピソードトークの精度が高く、笑いどころが随所に散りばめられていながら、登場人物たちの人間臭さもしっかりと反映されていて、まるで新作落語のような趣きを見せます。さだ氏が高校・大学と落語研究会に所属していたことも、この圧倒的な完成度に貢献しているのでしょう。

これをきっかけに他のライブアルバムも聴くようになったのですが、トークベストとは違って、そちらにはちゃんとさだの歌声も収録されております。いちいち飛ばすわけにはいきませんので、併せて聴きます。すると、だんだんと歌の方も、しっかりと聞き入るようになってしまいました。さだまさしの曲といえば『精霊流し』と『関白宣言』ぐらいしか知らず、それらも知識として理解している程度でしかなかったのですが、日本の原風景を思わせるような歌詞と繊細なメロディがあまりにも美しく、気が付くと、すっかり心を持っていかれてしまいました。もっとも、そちらが本業なのですから、当たり前といえば当たり前の話なのですが。

とはいえ、まだまだライブアルバムを中心にチェックしている段階のため、聴く曲は自ずと代表曲に限られます。『雨やどり』『案山子』『道化師のソネット』……完全なるにわかファンですね。

それらの中に『償い』という曲がありました。

不慮の事故によって罪のない人を死に至らしめてしまった青年“ゆうちゃん”が、「償いきれるはずもないが」毎月の給料を被害者の妻に送金し続けていると、事故から七年目の年に初めての便りが送られてきて……そんな物語がゆうちゃんの事情を知る友人の視点から描かれています。この曲名を目にした私は、なんだか懐かしい気持ちになりました。というのも、今から二十年ほど前に、この曲が世間から注目される出来事があったからです。

あれは2001年の春のこと。電車内で四人の少年たちが泥酔した男性と口論になり、男性からの暴行をきっかけに、意識がなくなるまで暴行を加え、放置する事件が発生しました。その後、男性は死亡。後日、四人の少年たちは出頭し、うち二人が傷害致死罪に問われて逮捕されました。翌年二月、東京地裁にて二人に実刑判決を下した裁判官が、判決理由を述べた後で、この『償い』の話を始めたのです。「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と二人に語ったことは、当時大きな話題となりました。この事件をきっかけにして、私も『償い』という楽曲のことを知ったと記憶しています。

『償い』は赦されるはずもない加害者の命がけの謝罪を描いた曲です。何の反応もないままに、それでも賠償金を郵送し続ける辛さはとても想像できるものではありません。ですが、それは被害者にとっても、同様のことがいえます。加害者の気持ちを理解し、赦してあげようという慈悲の心を持っていたとしても、心根では赦しきれない……そんなこともあるのではないでしょうか。

アンガールズのコント『友情』では、そんな被害者の理性ではどうすることもできない複雑な感情が描かれています。『友情』は2016年7月に行われた単独ライブ『~ゴミにも息づく生命がある~』の中で披露されました。

ベンチの上に置き忘れられていた田中の財布を、田中の親友である山根が出来心から自分のトートバッグに入れてしまいます。その姿を偶然にも目撃してしまった田中は、山根の元へと駆け寄り「今、俺の財布そこに入れた?」と詰め寄ります。当初、山根はシラを切ろうとしますが、田中に「今すぐ返したら赦すから!二十年の友達をさ、こんなことで無くしたくないから!」と説得され、すぐさま財布を返します。山根は自らの迂闊な行為について反省して落ち込み、それを田中が慰めます。これで二人の関係は元通り……に、なる筈でした。すべてを無かったことにして、バドミントンで遊び始める二人。ですが、山根がスマッシュを打ち込むたびに、田中の表情が曇り始めます。そして自らの本当の気持ちに気付くのです。

「ごめん!山根!さっきの全然赦せてないオレ!」

それでも二人は親友であることを続けるために、色々と試行錯誤を重ねます。それでも上手くいきません。とうとう二人は絶望して、友達関係を解消してしまいます。そこで田中がこぼした「友達の始まりに理由なんてないなあって思っていたけど、終わりには理由があるんだなあ」の一言の重みはたまらないものがあります。アンガールズという特異なコンビによって演じられているからこそ、このコントはナンセンスな笑いに満ち溢れたものになっていますが、その根底にあるテーマはとてつもなく重たく、私たち自身に圧し掛かります。果たして、私の友人が私の財布を盗もうとしているところを見かけて、その罪を赦そうとしたとき、私は友人のことを本当に心の底から赦せるのでしょうか。

さだまさしは『償い』のライナーノーツで、山本周五郎の短編『ちくしょう谷』からの一節を引用しています。「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」。むしろ人間は、そう簡単に人を赦せない、人を赦すことの出来ない生き物なのかもしれません。

最後に余談ですが、『償い』という曲はさだまさしの知人の実話を元に作られた曲だそうです。ただ、その知人は、事故の加害者ではなく被害者。つまり、さださんは被害者の妻から加害者の話を聞かされて、そこから加害者側の視点で曲を作ったわけです。アーティストとしてのさだまさしの凄みを感じざるを得ないエピソードですね。

“オウム返し”とうるとらブギーズ

どうも、すが家しのぶです。良い思い出に浸りがちな年齢です。

古典落語に「他人から教わったことを再現しようとして失敗する」という手法があります。有名な演目でいうと『時そば』がそうですね。屋台の立ち食いそばで店のことを褒めていた男が最後の最後で勘定を誤魔化している様子をこっそり眺めていた男が、自分も同じことをやってみようと試みて、まんまと失敗してしまいます。余談ですが、この『時そば』は上方落語の演目『時うどん』を江戸噺に移植したもので、『時うどん』では兄貴分が感情を誤魔化している様を見た弟分が感動して自分も真似をするという設定でした。個人的には『時うどん』の方が流れを自然に見せられているような気がするのですが、どのような意図があって改変されたのでしょうか。いつか調べてみますかね。

この『時そば』以外にも、言葉遣いの悪い八五郎がご隠居から子どもの褒め方を教わる『子ほめ』、出入り先のお店の婚礼に招かれた松さん竹さん梅さんの三人がご隠居から余興を教わる『松竹梅』、ご隠居から武人・太田道灌の逸話を聞いた八五郎が同じ方法で友人を追っ払おうとする『道灌』など、同様の手法を取り入れた演目は枚挙に暇がありません。この手法は落語の世界で“オウム返し”と呼ばれていて、演じ分けや声量などといった落語の基本を学ぶための前座噺によく使われています。もしかすると、「正解」と「不正解」を比較する構成がシンプルで、技術の至らない前座でも、観客が噺の内容を理解しやすいことも重要視されているのかもしれませんね。

「正解」と「不正解」を比較する手法は、漫才コントにも応用されているともいえます。”オウム返し”のように漫才コントは「正解」を提示しませんが、多くの観客は「正解」を理解しています。例えば、ファーストフード店を舞台としている場合、店員がどのようなマニュアルで接客を行うかをなんとなしに認識しています。自分の中に「正解」があるからこそ、目の前で繰り広げられる「不正解」の可笑しさが分かるわけです。

ところが、この”オウム返し”に一石を投じるコントが、突如として生み出されてしまいました。それがうるとらブギーズの『迷子センター』です。初出は不明ですが、『キングオブコント2019』決勝進出後の2019年12月に行われたベストライブで披露されたものがソフト化されています。自身のYouTubeチャンネルでも公開されていますが、画質が芳しくないので、個人的にはDVDでの視聴をお勧めしたいところですね。

舞台はデパートの迷子センター。従業員(八木)の元へ、紙袋を手にした男性(佐々木)が慌てふためきながらやってきて、「すいません!すいません!すいません!あの、息子が迷子になっちゃったみたいで!探してほしいんですけども!」と懇願します。そこで従業員は、館内アナウンスで迷子になった子どもを呼びかけるため、その子の見た目の特徴を父親に訊ねます。しかし、その子のビジュアルは、どうやらとてつもなく個性的。従業員は困惑しながらも父親の語る息子の特徴をメモに書き記します。「息子さん、すぐ見つかると思います」。父親にそう言いながら、従業員はメモの内容をそのままアナウンスしようとするのですが……。

前半は父親が説明する息子のハイセンスな特徴がボケになります。名前、髪型、着ている服、履いている靴に至るまで、実にキョーレツです。そんな父親が話した息子の特徴が、後半ではそのまま従業員によって読み上げられます。前半と後半でその内容にズレが生じることはありません。先の”オウム返し”とは違い、そのままの内容が繰り返されます。ですが、前半と後半では、従業員の様子に変化が生じます。前半では父親が語る息子の特徴に驚きながらも的確にメモを取っていましたが、後半では、それを丁寧にアナウンスしようとするたびに笑いが止まらなくなってしまうのです。この従業員の姿に、前半で笑っていた観客がまた改めて笑い始めます。これがスゴい。

つまり、この『迷子センター』というコントは、前半と後半で同じボケを使っていながら、受け手の態度を変えることで、まったく新鮮な笑いへと昇華されてしまっているのです。こんなコント観たことがありません。とんでもないコントです。もっというと「笑いが止まらなくなる」という展開が絶妙ではありませんか。同じ映画を観るときでも、二度目三度目では初見時に気付けなかった物語の深みを発見することがあるように、改めて噛み締めることで、息子の特徴が持つ可笑しみの深さをよりしっかりと気付いてしまう、この絶妙なリアリティ。更にいえば「迷子センター」という適度な緊張感が張り詰める舞台設定も素晴らしいです。

というわけで、"オウム返し"だなんだといっておりましたが、今回はとにかく「うるとらブギーズの『迷子センター』がスゴい!」ということを言いたかっただけの記事でした。正直、ここ数年の間に見てきたコントの中で、一番の衝撃でした。是非とも、是非ともご覧下さい。

2021年7月の入荷予定

14「バカリズムライブ番外編「バカリズム案8」

どうも、すが家です。映像素材が無いためなのか、DVD作品のリリースが激減していますね。とはいえ配信イベントは行われているので、単に収入に繋がるような映像が見つかっていないだけなのかもしれません。厳しい。そんな状況下でリリースされるのが、およそ八年ぶりとなるバカリズムライブ番外編「バカリズム案」のDVDであります。昨年十二月に無観客状態で行われた配信公演の模様を収録しているそうです。……これはちゃんとソフト化されるんやなあ。

生と死とシソンヌ

どうも、すが家しのぶです。皆さんは大事な人の最期を看取る覚悟がありますか?

妹を事故で亡くしてから今年で九年が経ちました。あの日のことは今でも昨日のことのように思い出せます。週末の夜、いつものように自室で過ごしていると、家族の慌てふためく声が聞こえてきたので、どうかしたことかと部屋を出てみると、血相を変えた姉が「妹が息をしていないから救急車を呼んだ」と一言。自分も慌てて父母の元へと向かうと、青ざめた表情で横たわっている妹の姿が。それからしばらくして救急車がやってきて、意識の無い妹と父母はともに病院へ。姉と私は自宅で待機することに。一時間ほど経過したところで母から電話があり、「とにかく来てくれ」といわれ、私だけが自分の車で病院へと向かいました。そこで妹の死を告げられたのです。

元々、妹には持病があり、何の前触れもなく意識を失ってしまうことが、過去に何度かありました。それで病院に運ばれたことも一度や二度ではありませんでした。だから、その日も私は「またいつものやつかな」と、割と冷静に状況を受け止めていました。しかし妹の意識が戻ることはありませんでした。ほんの一時間前に下らない会話を交わしていた妹は、本当に何の予兆も見せることなく、あっという間にこの世を去ったのでありました。その後のことはあまり記憶に残っていません。妹の遺体が運ばれてきて、通夜があって、葬式があって……心身ともに疲労困憊の状態で迎えた月曜日がとても辛かったことを覚えています。

それからしばらく妹の残像のようなものを目にするようになりました。当時は、自分の中で妹の死を受け入れられていないのか、と不安を覚えましたが、今になって考えてみるに、この時間には妹はいつもここにいて、この時間には妹はこんなことをしていて……そんな微細な記憶が、実際の景色を上塗りしていただけに過ぎないのでしょう。そのうち、妹の残像を目にすることはなくなりました。しかし、そうなると今度は、妹のことを忘れてしまうのではないのかという不安に襲われるようになり始めました。今後、現実では絶対に上書きされることのない妹の生前の姿を、これからもずっと正確に覚えていることは出来るのだろうか、と。

シソンヌのコントに『息子の目覚まし時計』というネタがあります。「キングオブコント2014」で優勝を果たした彼らが、その翌年に敢行した単独ライブ『シソンヌライブ[trois]』の中で披露されました。

朝のリビング。ソファに腰掛けながら、部屋の隅にあるチェストをじっと眺めている女性(じろう)の姿があります。チェストの上にはサッカーボールや野球のグローブ、ミニカーなどのような、いかにも男の子が遊ぶためのような道具が置かれています。そこへ女性の夫(長谷川)がやってきて、「おはよう」と声を掛け、そのまま女性の隣に座ります。「たける、何処にいるんだろうな」「意外と近くにいるかもしれないわよ」「そうかもな」……二人の会話は、それらの道具を使っていた男の子……つまり息子が、行方不明になっていることを表します。

やがて夫は切り出します。「もう……良くないか?」「何が?」「たけるの部屋だよ」。二年前に二人の前から姿を消した息子の部屋は、当時のまま残されていました。でも、もう、そのままにしなくてもいいのではないか、と夫は言うのです。それでも、ひょっとしたら戻ってくるかもしれない。だから部屋をそのままにしておきたい……。そんな妻の意志が語られるよりも先に、二人の会話を止めるかのように目覚まし時計の激しいアラーム音が鳴り響き始めます。本当の夫の目的は、息子がいなくなる前にセットして、そのまま放置されていた目覚まし時計を止めることだったのです。

私はこのコントを初めて目にしたとき、そのあまりにも理不尽な設定に号泣してしまいました。行方不明になった息子の部屋の全てをそのままにしておきたい妻、息子の目覚まし時計の音が周辺の住民にまで被害を及ぼしていることに我慢ならなくなってしまった夫、どちらの気持ちも分かります。でも、何もかもをそのままにして、生きていくことは出来ません。「行方不明」と「事故死」の差はあれど、そのコントのテーマはまさに、依然として妹のことを引きずっていた私の心にあまりにもストレートに突き刺さってしまったのです。

あれから九年。もはや実家に妹の部屋はありません。ただ、妹の私物の多くは、今でも物置で眠っています。とはいえ、それもいつか処分しなくてはならない日が来るのでしょう。あの日、心配していた妹の記憶は、予想していた通りに薄れ始めています。もっと写真や動画を残しておくべきだったと後悔しています。でも、これはもう、どうしようもありません。諦めることにしました。いつまでも引きずっていても仕方ありませんからね。

ただ、シソンヌの『息子の目覚まし時計』を見るたびに、妹の記憶が失われてしまうことへの不安でいっぱいになっていた、あの辛くて苦しい時期のことを思い出します。そして私の心の中にも、あの目覚まし時計の音が鳴り響くのでした。

皆さんの心にもいつか鳴り響く日が来ますからね。ご覚悟を。

大切なお知らせ

どうも、すが家しのぶです。今年頭に創刊号が配信された『読む余熱』の第二号に寄稿させていただきました。今回のテーマは「大好き!テレビバラエティ」ということで、私が毎週楽しみにしているバラエティ番組『テレビ千鳥』の、中でも個人的に大好きだった企画をフィーチャーしてお話しさせていただいてます。正直、大阪を中心に活動していた頃から千鳥が大好きな人たちのことを思えば、「自分みたいなモンが千鳥の番組について語ってもいいものなのだろうか?」とも考えたのですが、実際問題大好きな番組なので、これはもう仕方がありませんでした。不満のある方は各自で魅力を語ってください。皆で語ろう『テレビ千鳥』!

そんな私の他にも、飲用てれびさん、K-PROの児島気奈さん、ヒャダインさんが大好きなバラエティ番組について語っているようです。よもや、自分のような人間が、あの『日常』の主題歌を歌っていたヒャダインと名前を連ねることになろうとは思いませんでしたね。ちなみに、飲用てれびさんは『あちこちオードリー』、児島さんは『タモリ倶楽部』、ヒャダインさんは『全力!脱力タイムズ』『ゴッドタン』などについて語られているようです。地味に児島さんが『タモリ倶楽部』について何を語るのか気になりますね。楽しみだな……。

『読む余熱』第二号は6月25日発売予定です。良ければ買ってください。

栄光の陰に隠れている現実をさらば青春の光は暴き出す

どうも、すが家しのぶです。

皆さんは先日放送された『キングオブコントの会』をご覧になりましたか。私は放送時に外出していたので、まだ見られていません。録画はしてあるのですが、三時間と長時間の特番だったこともあって、なかなか時間を設けることが出来ずに後回しにしてしまっています。週末ぐらいには見られるといいんですけれどね。報道によれば、全国の視聴人数が2500万人を突破したということで、これがスゴいことなのかどうなのかは比較対象がないので判断できませんが、報道されるぐらいですので、きっととんでもない数なのでしょう。この六月中旬から予選が行われる予定の『キングオブコント2021』も、これぐらい盛り上がってくれると有難いのですが。

ところで、『キングオブコント』を代表するコンビといえば、皆さんは誰を想像しますか。東京03、ロバート、バイきんぐ、シソンヌ、ハナコなどといった優勝者を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。ただ、『キングオブコント』という大会において、最も印象的な存在感を見せつけていたコンビを選ぶとすれば、やはりさらば青春の光になるような気がします。六度の決勝進出、所属事務所の変遷(松竹→フリー→ザ・森東)、良くも悪くも印象的な東ブクロのスキャンダル……それらの多くは『キングオブコント』という大会に直接的には関係していませんが、彼らが大会に出場していた時期とそれらの大きな出来事が重なることで、結果的に印象に残ってしまっています。無論、それまで彼ら自身が『キングオブコント』に対する熱意を、様々なメディアで語っていたことも大きいのですが。

そんなさらば青春の光ですが、2018年の出場を最後に『キングオブコント』から撤退しています。その理由について、森田さんは様々なメディアで「割に合わないから」と語っています。一年かけて磨き上げたネタが、たった一回の決勝戦で審査され、優勝出来ないのはあまりにも割に合わない、と。この森田さんの考え方が反映されているようなコントがあります。彼らが『キングオブコント』から撤退する前年、2017年の単独ライブ『会心の一撃』の中で披露された『金メダリスト』です。

舞台は記者会見場。100メートル平泳ぎの部で金メダルを獲得した水泳選手(森田)に、記者(東ブクロ)がインタビューを始めます。前回のオリンピックでは第五位という結果に終わった選手が、今大会では名誉挽回と呼べる結果を叩き出したわけですから、当然、選手からは歓喜の声が聞けるものだと待ち構えています。ところが、実際に選手の口から出た言葉は、あまりにも意外なものでした。

「あのー……割に合わないですねえ……」

驚きを隠せない記者は、それでも何かしらかの喜びの言葉を引き出そうと、様々な角度から質問をぶつけようとします。しかし、口から溢れ出る言葉は、金メダルを獲得したことへの喜びよりも、そこに至るまでの辛くて厳しい四年の間に我慢させられた様々なことへの不満と後悔を表したものばかり。無茶苦茶な練習を課してきたコーチには殺意が芽生え、観客の歓声を「応援という行為が一番簡単」と突っぱね、更に「明日には「○個」って言われます」と世間の金メダルの扱いの軽さにまで言及し始めます。そして果てには金メダルの価値の話を切り出す始末……。

このネタを始めて目にしたときには、単純に熱意や感動がつきまとうスポーツに対する冷ややかな視点から生み出されたコントだと思っていたのですが、今にして思うに、この頃から既に賞レースに対する不満がこみ上げていたのかもしれません。もっとも、さらばは最後まで賞レースで優勝できなかったわけですから、これは単なる「すっぱいブドウ」といえるのかもしれませんが……。ちなみに、この単独ライブの二年後、森田さんはフィンランド発祥のスポーツ「モルック」を始め、今や日本モルック協会の公式アンバサダーに就任することになるのですから、人生って本当にどうなるか分からないものですね。

何はともあれ、今年も『キングオブコント』が開催されるようですので、今から決勝戦の放送を楽しみに待ちたいと思います。……あっ、そういえば、その前にモノホンのオリンピックが開催されるみたいですね。まだまだ色んな不安や不満が噴き出している状況での開催となりますが、どのような大会になるのでしょうか。選手や視聴者が「(こんな状況で開催したのに)割に合わないですねえ……」とボヤくようなことにはならないと良いのですが。

無邪気な悪意とともにラーメンズは踊るのだ

私がお笑い芸人のDVDを収集するようになるきっかけとなった作品が、大学の入学式を控えた2003年の春に気まぐれで購入したラーメンズのベスト盤『Rahmens 0001 select 』であることはこれまでにも何度か書いてきました。当時、お笑い芸人のライブ映像といえば、さまぁ~ずやネプチューンのような売れっ子の作品しか観たことがなかった私にとって、徹底的に無駄を排除したラーメンズの単独公演の映像はあまりにもアヴァンギャルドで、革命的なものだったのです。

その中でも特に何度も見返したネタが『プーチンとマーチン』でした。コントとしての独創性、表現力を感じさせられるネタは他にもありましたが、この『プーチンとマーチン』はとにもかくにもシンプルに笑えたのです。子どものころに初めて読んだギャグマンガのような衝撃を受けましたね。『プーチンとマーチン』の魅力はなんといっても掛け合いの妙。何の意味もないような会話が延々と繰り広げられていきます。そこに時折、しれっと投げ込まれるブラックなジョーク。

「うどんときしめんの違いを述べよ」
「ウドで出来てるのがうどん、キシで出来てるのがきしん」
「きしん?」
「そう!黄色いミシン!」

という無邪気な言葉遊びが行われた直後に、 

「男と女の違いを述べよ」
「殴っていいのが男!嬲っていいのが女!」

と、コンプライアンス的にかなり危うく、しかし今もなお根付いている男女差別の根本を切り出しているような一言をぶつけてくる、この緩急のメリハリがたまりません。

これらの会話をパペット人形が繰り広げているところもいいんですよね。会話の形式を取っているので、小林と片桐による会話でもネタとしては成立する筈なんですけれど、それだと作り手の悪意みたいなものが前面に出過ぎてしまう。このネタはあくまでも無邪気な者たちによる会話だからこそ成立するのです。だからこそ、小林と片桐ではなく、パペット人形が会話をする。また、このパペット人形が、白と黒の無機質なデザインなのもいいんです。徹底的に余計な情報を含めない。あくまでも会話だけで魅せる。ストイックな姿勢が感じられます。

ちなみに、ネタの中でたびたび聴かされる「♪切ない人間」の曲ですが(この歌詞の人間を観察する側としての立場を取っているところもまたいいんですよねえ)、この曲の元ネタはロシアの楽曲『カチューシャ』なのだそう。その歌詞では、カチューシャという名の少女が出征した恋人を思う様子が描かれております。ソ連で開発された世界初の自走式多連装ロケット砲の名前が”カチューシャ”なのは、この曲が由来しているのだとか。そんな曲に「切ない人間」って内容の歌詞を当てはめているのかと思うと……何だか深読みさせられますね。