#お笑いビデオ備忘録

どうせ一度の何かなら

2025年5月のぼやき。

ゴールデンウィークもぼやいていました。

時の流れを噛み締めているつぶやきです。五年の歳月が流れて、渡部さんの行為について詳細に語られなくなってしまった結果、単なる「不倫」として処理され始めているような気がしています。それが悪いこととは思いませんけれど(人の噂というのは、そういう風になってしまうものでしょうし)、未だに渡部さんがテレビ業界から距離を置かれている理由は「不倫」ではないところにあると思いますよ。

 

ピン芸人・九月さんが炎上している様子を眺めていて、ふと思い出した「推し」の違和感についてのつぶやきです。かつて感じていたのは「自分と同じ身近な環境にある人間を「推し」という自分とは違う特別な存在に置き換えてしまう姿勢は、自らの人生のための努力や反省をおざなりにさせてしまう考え方なのではないか?」という疑念によるものだったのですが、今はどちらかというと「普通に生活している人を「推し」と呼ぶことでエンターテインメント的に消費する態度は、おおっぴらにやらない分には良いけれど、褒められたものではない」という気持ちにシフトチェンジした、という話です。

 

「説教は基本ゴミ」とつぶやかれている方を見かけて。何故か世の中には自分が相手に説教をしても良い側の人間であると過信している人が多いような気がします。自分が相手からどのような人間として見られているのか、という視点を持ち合わせていないからこそ、そういった軽率な行動を取ることが出来るのかもしれません。たまに愚行の典型例として「プレイの後で風俗嬢を説教するおっさん」が挙げられることがありますが、ネットで見知らぬ相手に説教を食らわせる人はこれ以下だという自覚を持った方が良いです(風俗嬢と客は金銭での関係性を築き上げていると言えなくもないので)。

 

SNSでの発言に批判が集まっている人が、自らの出自や血筋を持ち出して「俺が誰なのか分かって言ってんのか?」という態度を取っているところを目にして。先の万博でのコスプレイヤーの一件もそうでしたけど、本題とは無関係な要素で相手を打ち負かそうとする態度を取ることは、それ自体が議論における敗北を表明しているようなものだと思います。もっとも議論は勝ち負けを決めるためのものではありませんけれど。そもそもインターネットなんて、自分の出自をいくらでも偽ることが出来る場所ではあるので(ネット上で女性のように振る舞う“ネカマ”なんて言葉があるぐらいですし)、自分の生まれの良さをどれだけ主張されましても、こちらとしては「本当か?嘘じゃないのか?」という目で見てしまいますよね。

 

田中圭と永野芽郁の不倫騒動を受けて。それこそ川谷絵音とベッキーの一件のときに、そういう話が持ち上がっていた記憶があるんですけれども。個人的に、ゴシップは適度に楽しくやんややんやと盛り上がる程度が良くて、どちらかを本気で糾弾するような事態に発展するのは芳しくないように感じています。

 

宇多田ヒカルの新曲『Mine or Yours』の歌詞における「令和何年になったらこの国で夫婦別姓OKされるんだろう」という箇所が賛否両論を巻き起こした件について、賛成側にも否定側にも距離を置きたくなるようなことを言いたくなってしまいました。なんとなくこういう活動を支持されている方々って、(思想云々ではなく)長渕剛的なパフォーマンスを嫌悪していそうなイメージがあります。あと、J-POPを聴いていたら、いきなり社会問題について具体的に言及する歌詞が出てきて、ギョッとしてしまう感覚も理解できます。

 

躍起になって永野芽郁の整形疑惑を追及している人を見かけて。こういう活動をされている方って、いつも写真を根拠に主張されている印象がありますけれど、写真ってアングルや光の当て方で印象がまったく変わってしまいますよね。そんな曖昧なモノによく固執できるなあ、といつも不思議な気持ちで見てしまいます。

 

紅白歌合戦の一件について。なんとなく東京オリンピックにおける小山田圭吾や小林賢太郎のように、紅白歌合戦という大規模なイベントそのものを批判するための粗探しに巻き込まれたのではないか、という感覚が自分の中に残っています。……ということを、このポストを投稿した時点では思っていたのですが、下旬に行われた園子温の記者会見の模様を伝え聞いて、「これは『地獄でなぜ悪い』を歌わせなかったことは正解だったのかもしれない」と考えを改めました。この人間と今の星野源を僅かにも接近させるようなことは避けた方が良さそうだな、という感じがとてつもなかったです。

 

アイドルグループのお見送りイベントにおいて、ファンの剥がしを担当していた女性に対して批判が集まり、個人情報が特定され始めた件を受けて。最近、ちょっと忘れられそうになっていた悪性のインターネットとしての側面が、じわじわと復活している感じがあって、落ち着きませんね。その道はかつて先人が通ってきた道ですし、だからこそ法も整備されちゃってますけど……と言ってあげたいですね。

 

ネット炎上が頻発している昨今について考えたときに、ふと思い浮かんだサービス。芸人のinfoに攻撃的なDMを送っているアカウントのデータも共有したいですね。結局、同じようなアカウントが暗躍していただけ、みたいなことになりそうな気がします。

 

強めの皮肉。紆余曲折の人生を経て、辿り着いた場所がそこなのかいってことも思います。長い人生、もっと他にやっておいた方が良いことがあるような気がします。

 

巡り巡って、エンタメの価値が下がり始めている気がするんですよね。「作品の一時的貸し出し」から「サブスク契約」へと鑑賞するためのハードルが上がってしまっているわけですから。「手間がかかるなら、別に見れなくてもいいや」という感覚を植え付けるきっかけになっているのではないかしらん、と。

 

明らかに作者が思想を絡めて作り上げた作品の批評に対して「創作と現実を切り分けて考えられていない」とヤジを飛ばす姿勢は、現実から逃げるための効能がエンタメには含まれているとはいえ、あまりにも潔癖過ぎて驚かされます。本当に最近のネットユーザーは「それはそれ。これはこれ」が出来なくなっているのかしらと心配になりますね。余計なお世話でしょうが。

 

そもそも、いくら公開されているとはいえ、他人のフォローしているアカウントの品質をチェックするような行為は、なんとなく他人の家のゴミを漁る行為と繋がっているような気がして、あんまりよろしくないような気がします。

 

地方ならではの特色を自称・先進的な視点で潰そうとする行為は断固否定します。そもそも地方ならではの特色を最も消費したがるのは都会の人間でしょうに。

 

この直後、五月女ケイ子によるイラストが炎上して、「本当にややっこしい人ばっかりだな」と再認識させられました。

 

星野源のナメられ感は異常ではないか、という印象の話です。私のように熱心なファンではないような人間でも、彼がしっかりと様々な事象に対して考慮した上で活動しているタイプのアーティストであることはなんとなく分かるのに、何故か私よりも彼のことを熱心に追いかけているような人たちの方が、サクッと「そんなことも分からなくなってしまったの?」と手のひらを反すような態度に出るのが不思議でなりません。ことによると、星野源というアーティストのアイデンティティに対し、自身を過剰に投影されているのかもしれませんね。

 

五月女ケイ子が『サブスタンス』の主演であるデミ・ムーアの役者人生をざっくりと描いたイラストが炎上した件を受けて。社会に対して訴えかける力がある傑作映画が公開されると、そのメッセージに感銘を受けて過剰に持ち上げ始める人たちがぞろぞろと現れて、ちょっとでも茶化すようなことが起こると過激な反応をするというパターンが定着化しているように思います。結局、批判を受けて、五月女ケイ子のイラストは取り下げられてしまったようです。……なんか、これはこれで「『サブスタンス』はそういうような人たちが支持する映画」みたいなイメージが広がりそうですね。

 

『ガキ使』にて、月亭方正が「やっぱビンタされるのなんか嫌や」「蝶野さんに松本さんとか浜田さんがビンタされてるんやったら、俺は喜んでやる。でもさ、俺ばっかりやん」と語ったくだりが炎上していた件について。その様子をエンターテインメントとして消費していた社会だったことを棚に上げて、方正の話を笑いながら聞いていたココリコ田中・千原ジュニアを批判するのは、なんかちょっと違うのではないか……という違和感を覚えました。彼らを批判する目線で自分たちの過去を見ることは出来ているのでしょうか。

 

オールスター感謝祭における永野芽郁と江頭2:50をめぐる炎上に巻き込まれていた広瀬アリス氏ですが、批判に対して何も反応することなく、それ以前と同じノリでSNSを運営されているところを目にして。結局のところ、批判を無視するのが最善の手段ということになってしまっていますが、そのことについて当時批判していた人たちはどう思っているのでしょうか。

 

たまに炎上する露出度の高いキャラクターの看板やポスターよりも、こういう判で押したようなキャラクター設定の方に違和感を覚えるようになってしまいました。どんな話題にも定番のコピペで盛り上っているネットのオタク感を覚えるといいますか。酒カスキャラに関しては、本当に登場頻度が高いですよね。そういうキャラクターにするのなら、それ相応の体型にしてほしいですけどね。……この傾向、近年ではVTuber方面にも起きているようです。

 

バーグハンバーグバーグが打ち出した星野源の広告に対する批判を見かけて。公共掲示板へポスターを貼り出したことに対する批判が主のようですが、むしろそういった掲示板に対する神聖化が批判者からは感じられて、地方在住の身としては違和感を覚えます。そもそもポスターの貼り出し期間も一週間以内と限定されているので、そんな手間のかかるものに資本によるハックもへってくれもありませんよね。「書を捨てよ、町へ出よう」とはよく言ったものです。

 

先の『ガキ使』の件も含めて、改めて思ったこと。現在の視点から見れば間違っていたと感じられることでも、当時はそれが正しいと思っていたから行われていたわけで、その当時の感覚を否定するのは、当時から今に至るまでの変遷を軽んじる行為なのではないかと思うのです。あと、その理屈がまかり通ると、今現在も未来で否定される側になることを受け入れなくてはならないので……。その時に「当時があってこその今があるわけじゃん!」って言い訳を出来ないようにしたくないです。

 

「晩節を汚す」という表現はあんまり好きじゃないので使わないのですが、この時の歌丸師匠はまさにそういうことをやってしまったのではないかと個人的には感じております。苦言を呈されるような芸風であることは理解できますけれど、別にそれを歌丸師匠がやることはなかったよな、と。

 

「おじいちゃんのお墓参りに行ってきた」という女性が線香立てに火のついたタバコを供えている動画が批判を浴びた件について登校したのが一つ目のポスト。それに対して「SNSに生活が侵食されてるな」という反応を頂戴したので、反応として二つ目のポスト。SNSに生活を投稿する方が良くないのか、その(自分の生活圏における)非常識な行為を批判する方が良くないのか。……そもそもSNSにおける批判行為ってどれほどの効果があるのでしょうか。大抵の場合、炎上化して当事者が傷つけられて終わってしまって、反省もへったくれもない状態になってしまうようなイメージなのですが。

 

「私たちの社会の中に投げ込まれた不純物」として排除しようとしているように見えます。転じて、それは「私たちの社会は絶対的に正しい」とでもいうような信仰じみたものを思わせます。でも、当然のことながら、それが社会の中で在る以上、社会の流れの中で生まれたものと考えるのが自然でしょう。ネットユーザーは自分のコミュニティ外に生じたものの経緯について調べることをサボりがち。

 

SNSでよく見かける「明らかにポストの内容は正しいのに、何故か批判されている人」について。あとタイパの行きつく先ってそういうことになるんじゃないか、という不安も少々。不快なアカウントをブロックする行為にも同じことがいえるのかもしれません。

 

それを受け止められる器になれるのか、という自分への問い掛けを怠らないように。

 

所ジョージと参政党員のツーショット写真が拡散されているところを見かけて。実際に党を支持していたとしても、それはもう個人の思想の話になるので、こちらからは何も言えることはありません。どうでもいいですけど、政治家とのツーショット写真ぐらいで盛り上がる人たちを見ていると、そりゃ芸能人は政治の話なんて出来ないよな、という気持ちにさせられます。

 

新聞のラテ欄に書かれた「小泉米」というワードを目にして。まさか、かつての小泉純一郎フィーバーを夢見ているとかじゃないですよね?

 

こちらからは以上です。