白昼夢の視聴覚室

犬も食わない

ラジオリスナーとしての分別について

例え話をする。

私は『あいみょんオールナイトニッポンGOLD』のリスナーだが、シンガーソングライターとしてのあいみょんにはさほど興味が無い。彼女の書く楽曲の中には好きなものもあるにはあるが、その多くには興味が感じられない(あくまでも現時点においての話である。将来的に心変わりする可能性も否めない)。ただ、ラジオパーソナリティとしてのあいみょんは好きだ。かなり好きだ。「やっほー!」とリスナーに対して気軽に挨拶を交わせる温度で繰り広げられる自然体のトークは、子どものころに感じたやわらかい使い古しの毛布のように心地良い。

対して、私はかつて放送されていた『CreepyNutsのオールナイトニッポン』が、やや苦手だった。トークやコーナーが面白かったので、毎週のように聴いてはいたのだが、意識的に悪童として振る舞う二人の掛け合いが滲ませる軽率で悪辣なトーンに、辟易とさせられることも少なくなかった。「このままだと、いずれ取り返しのつかない発言をしてしまう日が来てしまうのではないか?」と勝手に心配してしまうこともあった。なので、番組の終了が告知されたときは、無念さとともにある種の安心感を覚えたものである。ただ、彼らの生み出す楽曲は好きだ。たまらなく好きだ。自分の人生を振り返るとき、頭の中で自然に流れるBGMのように、心を揺さぶられてきた楽曲をいくつも思い出すことが出来る。

何が言いたいのか。

好きなラジオ番組のパーソナリティの活動について、リスナーは全てを肯定的に受け入れる必要性はない、という話だ。何事にも相性はある。好きなラジオ番組のパーソナリティのアーティストとしての活動が肌に合わないこともあれば、素晴らしい楽曲を生み出すアーティストのラジオ番組での発言が受け入れられないこともある。すべてを無理に肯定して飲み込もうとはせずに、それぞれの活動をそれぞれの表現として、まったく別のものとして考えるべきなのである。

というわけで、『ハライチのターン!』『オードリーのオールナイトニッポン』『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』のリスナーだからといって、『オドオド×ハラハラ』の終了について彼らに同情的なスタンスを取りつつ、終了の責任をフジテレビにのみ背負わせるのは、あんまりよろしくな(以下自粛)

テレビに比べてラジオは、どうしてもリスナーはパーソナリティと距離が近いような錯覚を起こしてしまいがちなので、そこんところは意識して気を付けて生きていきましょうね、という話。