この作品を読み返すのも、もう何度目のことになるのだろうか。そもそも施川ユウキ作品は読み返す頻度が高い。登場人物たちの陰キャ特有のめぐりめぐった思考がこんがらがりながらもギャグとして昇華される様子に、自分では到達することの出来ない思考の深淵の面白味を感じるためだろう。だが、そんな中でも、『バーナード嬢曰く。』を読み返している回数は群を抜いて高いように思う。
『バーナード嬢曰く。』は、四人の読書好きな高校生が、学校の図書館で古今東西の書籍について思い思いの意見を述べ合う様子を描いた漫画だ。意見……というと如何にも学習向けの内容を想像されてしまうかもしれないが、「歯痛のときには歯痛がテーマの本を読んでみるのはどうだろう」だとか、「読み終わった直後には傑作だと感じた本でも、一晩経ったらそうでもないかと変わりそうなので、この場で絶賛することは出来ない」だとか、比較的親近感を抱けるテーマで描かれている。
そもそも本作は、自らを“バーナード嬢”と名乗っていた町田さわ子が様々な名言について持論を述べて、同じ時間帯に図書館を利用している同級生の男・遠藤が話し相手をする、名言をモチーフとしたギャグ漫画として連載を開始した。しかし、回を重ねるにつれて形式が変化し、現在の形となっていった。そのきっかけを作ったのは、2冊目(第二話)に登場するSFオタク、神林しおりである。ろくに本を読もうとせず、テキトーな持論ばかりを展開する町田に対して怒りを募らせていた神林は、この回で町田に突撃、遂には顔面をパンチするという暴挙に及んでしまう(煽るようなことを言ってしまった町田も悪いのだが)。以後、神林はレギュラーとして登場し、それまで町田の相手役を務めていた遠藤を凌駕するほどの活躍を見せるようになる。
私が『バーナード嬢曰く。』を何度も読み返してしまう原因は神林にある。
当初、本に対して怠惰な態度で臨んでいた町田さわ子に対するツッコミ役として、或いは、オタク気質であるがゆえに視野狭窄に陥ってしまいがちなところを突かれて恥ずかしがる姿をコミカルに見せる「読書家あるある要員」として活躍していた神林しおり。だが、町田がそれなりに本を読むようになり、神林と比較して描かれなくなったことで、二人の関係性は「大事な読書友達」へと変化を遂げる。いつしか二人は、夜中に電話やメールでやりとりしたり、読書に合うBGMを探すために二人で一つのイヤホンを共有したり、青春感を味わうためにプールサイドで読書したり……二人だけの思い出を積み重ねていく。それは青春感などではない。まさしく青春そのものだ。読者の心を揺さぶるほどに美しい、唯一無二の刹那な時間がそこには描かれている。電子書籍限定で町田と神林のエピソードをまとめた本が出ているのも、きっと同じように、二人のことが気になって仕方がない人が多いためだろう。
この表紙だけでも、二人の時間の愛おしさが伝わるのではないだろうか。
そんな二人の物語を描くためなのか、巻数を重ねるごとに施川ユウキの画力も向上している。例えば、第一巻では判で押したように記号的に描かれていた神林の髪が、第四巻あたりからは必要に応じて細かく乱れるように描写されるようになった。例えば、次のコマ。振り返って、一度通り過ぎようとしていた書店へ舞い戻る際の、躍動する髪の描写が素晴らしい。
(第五巻収録【駅構内の小さな本屋】より引用)
画角やコマ割りにもハッとさせられるものが多くなってきた。神林が本を椅子の上に置いて手を温めるまでの過程を、余計な台詞や描写を加えず、写実的に描写している。四コマ目で全体を見せることで、小さいコマなのに開けた印象を与える。地味ながらも映画的なシーンである。
(第五巻収録【ストーブ】より引用)
『え!? 絵が下手なのに漫画家に?』というタイトルのエッセイコミックを発売するほど、編集からも読者からも画力が評価されていなかった施川ユウキが、これほどのものを描けるようになったことに驚かざるを得ない。余談だが、いしいひさいちの話題作『ROCA』を読んだときにも、私は同じような感情を抱いた。発想重視のギャグ漫画家が突如として画力を爆発させ、エモーショナルな物語を生み落とす。作品の方向性はまったく異なっているが、『バーナード嬢曰く。』はある意味では『ROCA』の先駆者的な作品だったといえるのかもしれない。
現在、『バーナード嬢曰く。』は第六巻まで発売されている。重厚なストーリーが展開しているわけではないので、すぐさま全巻読み終えてしまう。そしてまだ見ぬ第七巻へと思いを馳せてしまう。二人の物語はどうなってしまうのだろう。待ち遠しくて仕方がない。そしてまた、私は読み返すのだろう。何度も何度も読み返すのだろう。