白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』(いしいひさいち)

どえらい作品について感想を書くときには、いつも「どえらい作品を目の当たりにした!」というシンプルな一言だけで済ませることが出来ればいいのにな、と思っている。それが自分にとっての率直な感想だし、何も知らない人がそのどえらい作品のどえらいところに何の前情報もないまま触れてほしいからだ。余計な言葉なんて、なるべく付け加えたくはない。

だが、作品の感想を公開するということは、イコール、不特定多数の未知なる読者がその作品に触れるきっかけとなってほしい、ということでもある。で、そうなると、「どえらい作品を目の当たりにした!」という一言では弱すぎるのである。そんな単純なコメントで大衆が動くのであれば、ドラマ仕立てのくせに中身のない雰囲気だけのつまらないコマーシャルなど作られることはないだろう。

というわけで、本来ならば「どえらい作品を目の当たりにした!」で済ませたい作品について、これから書く。本当にどえらい作品である。

いしいひさいちという漫画家がいる。貧乏学生たちの生態を切り取った『バイトくん』、実在する野球選手たちの生活をマヌケに描いた『がんばれ!!タブチくん!!』などの作品で知られる四コマ漫画家である。この他にも、政治モノ、ミステリーモノ、時代劇モノ、SFモノ、哲学モノなど、さまざまなジャンルの四コマ漫画を無節操に描いていたのだが、2009年に体調を崩し、現在は朝日新聞紙面で連載されている『ののちゃん』をメインに描いている。

どこにでもありそうな家族“山田家”のドタバタ生活のエピソードが中心となっている『ののちゃん』は、一見すると、既存の新聞四コマ漫画の類型であるかのように思われるかもしれないが、その内容は時にアグレッシブ。どこぞの球界の盟主に似た顔つきの町会長が“ワンマンマン”として困っている人の元へと助けに現れたり、何の脈絡もなく「スペインの雨は広野に降る」と口走ったり、いわゆる“もったいないおばけ”が具現化して山田家を出入りしたり、いわゆる日常モノの範疇を超越した要素がしれーっと投げ込まれるのである。スパイスにしては粒がデカいぞ。

その中でも、個人的に最も驚かされたのは、山田家の長男・のぼるのクラスメートとして登場した謎の美少女、富田月子がのぼるからファーストキスを奪う回である。怪異のような存在である富田による思わぬ行動は、新聞で掲載されている作品とは思えない魅惑的展開だった。

そんな富田月子よりも多くの読者を驚かせたキャラクターがいる。ファド歌手を目指す高校三年生、吉川ロカである。その衝撃について、漫画家のとり・みき氏が『いしいひさいち 仁義なきお笑い』に寄せた原稿の中で、次のように語っている。

いや まったく…
長年いしいマンガを読んできて
まさか作中の女性キャラに恋しようとは

吉川ロカの物語は、これまた唐突に始まった。ファド歌手を目指す女子高生・吉川ロカと、不良娘で言葉遣いは乱暴だが彼女のことをひっそりと支える年上の同級生・柴島美乃の日常。そもそも『ののちゃん』において、山田家とは関わりのない人物が中心となった作品が公開されることは、さほど珍しいことではなかったため、この唐突な始まりも違和感無く受け入れられたことだろう。

ただ一点、山田家の物語と吉川ロカの物語には、明確な違いがあった。山田家の物語は、『サザエさん』や『コボちゃん』などの他の四コマ漫画作品と同様、時間の経過が描かれなかった。なので、ののちゃんはいつまでも小学生で、クラスメートの顔ぶれも担任の藤原先生も変わることがなかった。だが、吉川ロカの物語には、明らかな進展があった。歌のレッスンを始め、ミュージシャン仲間と出会い、着実にファンを増やしていき、遂には事務所の目に留まる……その到達点を目指して歩みを進めている様が、はっきりと描かれていたのである。

吉川ロカの物語は、一部のファンから多大なる支持を集め、作者であるいしいひさいち本人も気に入っていたようなのだが、普遍的な四コマを求める朝日新聞の読者には大変に評判が悪く、2012年にひっそりと幕を下ろすこととなった。

それから十年後となる2022年。一度、幕を下ろしたはずの吉川ロカの物語が、突如として蘇る。なんと、いしいひさいちが自身のホームページにおいて、吉川ロカのエピソードのみを集めた単行本の発売を開始したのである。とり・みき氏ほどではないが、吉川ロカの物語にある種の愛着を感じていた私は、すぐさまこれを手に入れた。一冊1,000円ということで、いわゆるところの“薄い本”のような仕上がりを予想していたのだが、いざ手に取ってみるとしっかりとカバーの付いた単行本になっていて、この時点で少し感動してしまった。感情が忙しい。タイトルは『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』。

物語は吉川ロカと柴島美乃の出会いで幕を開ける。歌手を目指しているロカは、その夢を叶えるために、活発的な行動を見せる。音楽の先生から歌のレッスンを受けたり、バイト先で見かけたストリートミュージシャンの人に声をかけたり、誰も客のいない路上でストリートライブを敢行したり……その道は確かに自らの力で切り開いたものだった。そんな彼女の心の支えになっていたのが、美乃だ。時にロカの相談を聞いてあげたり、時にロカとファド歌手のライブを一緒に観に行ったり、オーディションの打ち合わせ会場に向かうためのバスを乗り間違えたロカを追いかけたり……美乃がいなければ、夢へと向かうロカの道は途中で途絶えてしまったかもしれない。この物語は、ロカの物語であると同時に、二人の友情を描いた物語でもあるのだ。

……と、このように説明すると、なんともありがちでベタな話であるように捉えられるかもしれない。だが、よく考えてほしい。この物語を描いているのは、あの、いしいひさいちなのである。ありとあらゆる事物をネタにして笑いへと昇華することを生業とした、四コマ漫画家が描いているのである。その内容は決して感傷的にはならない。そこには常にギャグがいる。むしろメインはギャグであって、その向こう側に物語が描かれているというべきなのかもしれない。だからこそ、だからこそ……終盤の展開に胸を打たれる。この物語の終着点を「それ」にしたという事実に。そして迎える、ラスト1ページの意味するもの。そこには細かい説明などはない。シンプルな結果だけが存在している。こんなもん見せられたら、泣くに決まってるじゃないか!

細かいことは書かない。とにかく読んでほしい。まったく、どえらい作品である。

これは、
ポルトガル
国民歌謡『ファド』の
歌手をめざす
どうでもよい女の子が
どうでもよかざる能力を
見い出されて花開く、
というだけの
都合のよいお話です。

   『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』前文より

・追記(2023年8月)

『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』が電子書籍になりました。

みんなで読みましょう。

エピソード集も出ますよ!