白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

『「たま」という船に乗っていた』(石川浩司・原田高夕己)

日曜の夜に放送されている「関ジャム 完全燃SHOW」という番組をたまに見ている。誰もが知るヒットソングや日本の歴史に名を残すであろうトップアーティストの素晴らしさについて、プロのミュージシャンが語り尽す番組である。巧みな歌詞やコード進行、メロディラインなどなど、アマチュアでは気付かないような微細だけれど確かな効果を発揮している要素をきっちりと解説していて、正真正銘のアマチュアである自分は「なるほど、そういうことなのかー」と首がもげるんじゃないかというほどに頷きながら見ている。

ただ、その一方で、番組を見ていて違和感を覚えることもある。確かに、音楽の定番のパターンを理解していれば、素晴らしい音楽を理論的に解説することは可能だろう。でも、音楽というのは、もっと感覚的に生み出されるものなのではないだろうか、理論だけに基づいて構築されるものではないのではないだろうか……と。否、むしろ、そういった「感覚で理解してこそ音楽」という思想が先行しているからこそ、「関ジャム」のような番組に需要が生じているのだろう。とはいえ、この言葉でのコミュニケーションが主要なインターネットの時代において、ありとあらゆるジャンルにおいて理論が先行してしまっている実感もある。

そんな時代に、まったく時代錯誤な漫画が生み落とされた。その名も『「たま」という船に乗っていた』。「たま」とは、1980年代から2000年代にかけて活動していたバンドの名称である。1989年に『三宅裕司いかすバンド天国』に出演、その圧倒的な存在感と独自の音楽性でお茶の間に衝撃を走らせ、1990年にメジャーデビューを果たした。当初のメンバーは、パーカッションの石川耕司、ギターの知久寿焼、オルガンの柳原幼一郎、ベースの滝本晃司の四名だったが、1995年に柳原が脱退し、2003年に解散するまで三名で活動を行っていた。

「たま」という船に乗っていた』は、たま解散後の2004年に出版された石川による自叙伝である。当時はあまりにも売れなかったため、ほどなくして絶版となってしまったのだが、どういういきさつかは分からないが、この令和の時代にコミカライズされたものが本作である。本書には19歳の石川が「たま」を結成して「いか天」に出場するまでの様子が描かれており、以後の出来事についても描かれる予定らしい(「webアクション」連載中)。

本書で描かれている石川を中心とした面々のエピソードがとにかく面白い。仲間にレコードを盗まれたり、イタズラ電話のように無差別に電話を掛けて無理矢理自作の音楽を聴かせたり、若かりし日の出来事だからこそ速やかに受け止めることの出来る話が少なくない。石川の代名詞である「坊主頭にランニングシャツで太鼓を叩く」というスタイルが出来上がっていくに至るまでの経緯も描かれているのも良い。あれほどまでに完成された姿が、誰かに影響されたのではなく、全ては結果的に生まれたものだったとは……。

これらのエピソードがメインで描かれている本書だが、同時に見逃してはならないのが、バンドの演奏シーンなどの場面で掲載される、当時の彼らが綴っていた歌詞である。これにとにかく面食らった。理論だのなんだのいうものを吹っ飛ばしたかのような、とんでもない歌詞なのである。言うまでもなく、当時の彼らには当時の彼らなりの理論があって、そこから生まれた曲だったのだろうとは思うのだが、それを差し引いてもキョーレツなのだ。とりわけ衝撃的だったのは第29話「“らんちう”たま」の回。「いか天」に出場したたまが、自身のオリジナル曲である『らんちう』を演奏するシーンだけで構成された回なのだが、『らんちう』の歌詞と、それを演奏するたまのトリップしているかのような姿を電撃的に描写した原田高夕己の画力が混ざり合って、より一層のとんでもなさを見せつけているのである。なんだこれは!?

なにかと批評的な視点で対象を解体して理論を培っていくことが先行しがちな現代において、内なる心のままに歌い続けてきた人たちの生き様を辿った本作は、そんな時代に合わない人たちに向けられた一種の処方箋といえるのかもしれない。これを絶対的に正しいとは言わないが、少なからず学ぶところは多いだろう。

春だ 春が来たんだ
春だ 春が来たんだ
怨念こめて また春がはじまる!

   石川浩司「春が来たんだ」