令和時代のお笑い公論

笑いの粗熱が冷めるまで

リハビリコント雑談:イッセー尾形『生物教師』

お盆休みの連休中、酒浸りになっていた後遺症なのか、心の様子がどうも宜しくない。具体的にいうと、何もやる気が起きない。ふと、「ブログを更新しよう」と思い立ったとしても、なかなか重い腰を上げることが出来ず、気付けば何もしないままに真夜中が訪れる。そんな日が何日も続いている。

このままでは心身ともに腐ってしまいかねないので、今日はなんとかかんとか心と体を動かして、ブログを更新してみようと思う。毎度お馴染みのリハビリテーション更新である。出来不出来に関わらず、とにかく更新するのである。しかし、ブログを更新しようと心に決めたところで、肝心の本文に何を綴るかが決まっていなければ、どうにもこうにも仕様がない。そこで、最近ふっと思い出したイッセー尾形の一人芝居『生物教師』を久しぶりに視聴して、思ったことをアトランダムに書いてみることにした。

イッセー尾形の『生物教師』は2004年に上演、翌年3月にリリースされた『イッセー尾形 ベストコレクション2004』に収録されている。当時、イッセーの舞台は定期的にソフト化されていて、レンタルビデオでも氏の公演を収めたVHSをよく見かけたものである。今現在もイッセーは一人芝居を続けているが、それらの舞台はソフト化されていない。この世の何処かにいそうな人の姿を描写する芸は、アーカイブを残してこそ、その希少性を感じさせられるものだと思うので、とても惜しい。

『生物教師』では、生徒たちに真に迫った生物の授業をするために、ノラネコを解剖したことが教育委員会にバレてしまい、大問題になってしまった生物教師による最後の授業の様子が描かれている。冒頭から、ノラネコを解剖したことに対する生徒たちに対する謝罪で始まるのだが、そこに反省の念は感じられない。ただ、やらかしてしまったことへの後悔と、これからどうなるか分からないが故の自暴自棄が繰り返されている。『生物教師』は、教師が思い描いている理想の授業と、それを間違っていると認められない現実の狭間で、ゆらゆらと揺れ動いている様が面白おかしく描かれている。

笑いの構成としては、序盤でフリとなる言動を提示して(ネコを解剖した手を眺めて「この手がなぁ~!」と後悔する、などのような)、その言動に繋がる展開を随所に散りばめたものが主。手の話になるたびに「この手がなぁ~!」と後悔の念に駆られるところで、大きな笑いが生まれている。いわゆる天丼と呼ばれるオーソドックスな手法だが、心の底では反省していない生物教師のキャラクターとの相性があまりにも良い。自分の立場を忘れて、生徒たちの前で持論をあけっぴろげに展開しているところで、急に現実へと引き戻される姿がたまらなく面白い。

この生物教師の考え方が正しいかどうかは分からない。教育のためであっても、誰にも飼われていないノラネコだとしても、殺すべきではないという人間もいるだろう。だからこそ劇中でも教育委員会から問題視されている。だが、それならば、金魚ならばいいのか、という話にもなる。生命の重さとはなんなのか。……そこまで重たいテーマを背負っているわけではないだろうが、そういった不明確な論理が見ている側にも備わっているからこそ、この教師の無反省と後悔の狭間を揺れるような振る舞いが、笑えるのだろう。どちらの意見もよく分かる。もっとも、世の中には「ネコはいたほうがいい」「ホームレスはいないほうがいい」と主張する人もいるようなので、そういった人には笑えない演目なのかもしれないが。

(まったくの余談だが、インターネット上における形骸化した「猫絶対主義」みたいな思想は個人的に好きではない。一昔前のテレビは「子どもと動物と健康ばっかり」と批判されていたが、それと同じ道をインターネットも辿っているようである)

ちなみに、この『生物教師』がどのような処分を受けたのかは、明らかにされていない。この授業の後、教育委員会と話をして、対処が決定する……というところで幕を下ろすからだ。ただ、教師はもはや分校に飛ばされることを覚悟しているようで、「分校行って、何から解剖してやろうかな!」と生徒たちに見栄を張りながら教室を出ていく。とことん人間臭い、だからこそ愛おしい。