白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

笑いを生み出すということ

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

最近は『佐久間宣行のNOBROCK TV』を毎週欠かさず見ております。

『佐久間宣行のNOBROCK TV』は、元テレビ東京局員のテレビプロデューサー・佐久間宣行が企画・出演・プロデュースを行うYouTubeチャンネルです。毎週水曜・土曜の午後七時に新作が配信されています。個人的に好きな回は、レポーターのウエストランド・井口に本職のトルコアイス屋がどれだけアイスを渡さずにいられるかを競い合う「トルコアイス渡さない選手権」です。M-1をきっかけに売れ始めているウエストランド・井口という芸人の魅力が余すことなく引き出されていました。

先日、この『佐久間宣行のNOBROCK TV』において、興味深い企画が配信されました。タイトルは「お笑い知識ゼロ人間に笑いが説明できるか選手権」(7月31日配信開始)。お笑い知識がゼロのスポンサーに、芸人が自らのネタの面白さを説明できるのかを検証するドッキリ企画です。今回、ターゲットとなったのは、「安心してください、はいてますよ!」のネタで知られるとにかく明るい安村。ここでもやはり「安心してください、はいてますよ!」のネタを披露するのですが、スポンサーからの問い掛け(佐久間と仕掛け人であるさらば青春の光・森田が指示)に対し、上手く回答することが出来ず、同じような内容の説明を何度も何度も繰り返すというみっともない姿をさらけ出しておりました。

ドッキリに振り回されている安村の姿そのものもとても面白いのですが、それ以上に興味深いと思ったのは、企画そのものの持つ批評性です。近年、芸人が他の芸人のネタの魅力について語る機会が増えてきましたが(余談ですが、先日の『佐久間宣行のオールナイトニッポン0』にゲストとして出演した放送作家のオークラが、この流れを作ったのは『ゴッドタン』の企画の流れでコント愛を熱弁していた東京03・飯塚だったのではないかという説を語られていて、なるほどなあと)、それと同時に、「芸人が語ることが正解である」という認識が強まってきました。一般の人間がどれだけ試行錯誤してネタについて語ったとしても、それは結局のところ舞台に上がった経験のないシロートの意見でしかなくて、プロフェッショナルである芸人の言葉の方が実体験に基づいているからこそ説得力がある……という理屈ですね。

「お笑い知識ゼロ人間に笑いが説明できるか選手権」は、そんな風潮に一石を投じる企画であるように思えました。実際に舞台に上がってネタを演じている側の芸人であっても、その面白さを論理的に理解しておらず、容易に他人に解説できるわけではないことを、この企画はまざまざと証明してみせたのであります。

とはいえ、それは決して悪いことではありません。むしろ、芸人という稼業の面白さが、そこに表れています。笑いの方程式が明確に組み立てられていなくても、「これは面白いのではないか?」というあやふやな状態のものをカタチにして、パフォーマンスとして披露し、観客を笑わせることさえ出来れば、それで成立するということですから。観客からのリアクションを重要視する仕事だからこそ出来ることなのではないでしょうか。……もっとも、大事な大事なスポンサーとはいえ、シロートに自身のネタの面白さをきちんと説明することをただただ嫌がって、ウヤムヤにしようとしていただけの可能性もありますけれど。

ちなみに、「お笑い知識ゼロ人間に笑いが説明できるか選手権」は前後編に分かれており、後編では納言と東京ホテイソンはターゲットになっているようです。ネタの構成に力を入れている東京ホテイソンがどんな回答をするのか、今から楽しみです。

コント『できるかな』は本当に面白いのかを考える。

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

東京オリンピックの開会式から間もなく二週間が経とうとしています。ホームでの大会だからというのもあってか、日本人選手による金メダルラッシュが続き、そもそもスポーツ観戦にこれっぽっちも興味を持っていなかった私のような人間でも、胸の奥底からコーフンのようなものが込み上げてきます。よもや逆流性食道炎ではあるまいな。

その一方で、東京オリンピックそのものに対する不信感もまた、自分の中で蠢いているので、感情がとてもややこしいことになっております。新型コロナウィルスへの不安が未だ解消されていない状況下での開催というだけでもストレスを感じているのに、大会を取り巻く有象無象の醜聞を見聞きしていると、「それはそれ!でも、これはこれ!」と否が応でも義憤に駆られてしまいますね。だからってデモ行進に参加しようとは思いませんけれども。感染リスクとかどうなってんだ。

特に私が腹を立てたのは、開会式のスタッフとして参加する予定だった、小山田圭吾小林賢太郎に関する話題でありました。小山田氏の告白記事にせよ、小林氏が手掛けたコントにおける差別的な台詞にせよ、反社会的で許されるものではないとの意見がまかり通っていますが、これらの批判の根っこにはあるのは明らかに「東京オリンピック憎し」の思想で、その正義は本当に公明正大に真っ直ぐな正義なのかと詰め寄りたくなります。

もっとも、時間の経過とともに、小山田氏の告白記事が客観的事実に基づいていなかった(当時を知る人のコメントや検証が行われていない)こと、小林氏の台詞の意図が理解されずに差別的な表現が独り歩きする形で拡散されてしまったこと、それぞれについて言及する記事もチラホラと出始めていますが。それに伴い、当時、本件についてヒステリックに騒いでいた人たちを見なくなりましたが、何処に消えていったのでしょうか。また別の話題を目指して漂流しているのでしょうか。いつか粟島にでも流れ着くのでしょうか。知らんけど。

それはそれとして、私には気になっていることがあります。それは「問題になっているラーメンズのコント『できるかな』ってそもそも面白かったっけ?」ということでした。今回の件を受けて、この『できるかな』そのものは面白かったけれど台詞そのものは問題だ……という旨の一般の方の発言をよく目にしたのですが、正直なところ、私にはそれほど良い印象がありませんでした。なにせ一見して子ども向け番組の安易なパロディなのは明確でしたからね。とはいえ、私が最後に『できるかな』を視聴したのは、今から十年以上も前のことになります。今、改めて、真摯にネタと向き合えば、評価を引っ繰り返す……とまではいかないにしても、何かしらかの新しい発見があるかもしれません。

そこで今、『できるかな』をきちんと批評し直そうと思い立ったのでありました。

しかし、ここで大きな弊害が生じます。ラーメンズのコント『できるかな』は、1998年5月に日本コロムビアより発売された『ネタde笑辞典ライブ Vol.4』に収録されています。とても容易に手に入るものではありません。しかも形式はDVDではありません。VHSです。万が一、この『ネタde笑辞典ライブ Vol.4』を手に入れられたとしても、我が家にはVHS用のデッキがありません。デッキを手に入れなくてはなりません。VHSビデオテープレコーダーの生産は2016年に終了していますから、これも今となっては、なかなか容易に手に入れられるものではありません。……つまり、私はこのコントを観るために、とてつもなく面倒臭い工程を踏まなくてはならないのです。ああ面倒臭い。やれ面倒臭い。

……と、ここまで読んでみて、疑問に思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。そして、こう思われたのではないでしょうか。「おい、すが家。お前はバカか。ネットで検索すれば、『できるかな』の映像なんて簡単に見ることが出来るじゃないか」と。確かにその通りです。実際のところ、私も十年以上前、この『できるかな』の映像をニコニコ動画で確認しました。ですが、考えてみてください。ネット上にあがっている『できるかな』の動画は、全て非公式なものです。くだんの映像の権利を持っている会社が公式にあげている映像ではありません。そんな違法アップロードされた映像を見て、是非を判断するなんて説教強盗みたいなこと、出来るわけがないじゃないですか。この件について語られている方々も、きっと大元のVHSを独自のルートで入手して、その内容の是非を判断しているに違いないのですから。……してますよね?

とはいえ、背に腹は代えられないので、私も仕方なしに『できるかな』の映像を(※ここでは言えない方法)によって視聴しました。お詫びとして、この記事を書いた後は公式によって正式にアップロードされているラーメンズのコント動画を百本観る行脚に旅立とうと思います。いざ行け、遥かコントの丘を越えて……。

『できるかな』は九分ほどのやや長めのコントです。ゴン太くん(片桐)の家を訪れたノッポさん(小林)が、日頃の感謝の気持ちを告げたり、視聴者から送られてきた手紙を読み合ったり、次の企画を考えたりする様子が描かれています。基本的には、NHK教育テレビで放送されていた『できるかな』をモチーフにしており、牧歌的な子ども向け番組に似つかわしくない表現を敢えて用いることで、笑いを生み出しています。とはいえ、ただのパロディというわけではなく、舞台裏での出演者同士のやり取りを描くことで、実在しない番組の内容を想像させられる面白さに重点を置いているように思えました。子ども向け番組のパロディといえば、過去にはあばれヌンチャクやニレンジャーなどが得意としていましたが、彼らはいずれも番組収録時の立ち振る舞いをネタに落とし込む手法でした。ここの見せ方への工夫に、ラーメンズの若手らしからぬ表現へのこだわりが感じられますね。

ネタの構成を見ると、まず二人の正体が明らかになるまでの時間を作るくだりがいいですね。いきなり誰が誰なのかを明確にしようとせずに、敢えて片桐氏のゴン太くんだけを先に見せることで違和感を残し、観客の意識を舞台に集中させています。この手法は彼らの初期の代表作『現代片桐概論』でも用いられていますね。続く、ノッポさんゴン太くんに感謝の気持ちを伝えるくだりは、目を見つめ合うくだりを経て、オチへと繋がるフリになります。登場キャラクターにボーイズ・ラブの香りを漂わせるのも初期ラーメンズの特徴の一つです。もっとも、このコントの場合、ゴン太くんの存在に性別の有無を感じさせませんけれども。そのあやふやさもまた面白いところです。

「視聴者からの手紙を読み上げる」「『できるかな』の替え歌を歌う」「結婚式のご祝儀」のくだりは、観客に伝わりやすいボケで隙間を埋める工程になります。いずれも元ネタの『できるかな』のパロディとしての赴きが強く、笑いが起こりやすい内容になっています。特に替え歌のくだりは好きな人も多いのではないでしょうか。ジャッキー・チェン風……みたいなのをやると、このコンビは本当に上手いですね。問題になった台詞のあった来週放送の企画を考えるくだりは、全体を通してみると少し異色。文字で構成された野球場を作る……という発想に、これといって笑いどころは見受けられません。ことによると、もしも小林氏が実際にノッポさんになって『できるかな』をやってみようとしたら……をリアルに想定して考えた企画だったのかもしれません。

ちなみに、問題となった台詞についてですが、先に「人の形に切った紙がいっぱいあるから」という観客に適度の違和感を残すようなフリとなる台詞があったからこそ、笑いに転換されていたように思います。ただ不謹慎なだけではなく、納得できる理由が提示されたからこそ笑いが起きたわけです。……納得すれば笑いが起こるのか、というところに引っ掛かる方は、ねづっちのなぞかけをイメージされるといいのではないかと存じます。堺すすむの『なんでかフラメンコ』でもいいですよ。なので、単なる不謹慎ジョークとして処理するのは、ちょっと違うような気がします。

あと、どうでもいいことなんですが、くだんの台詞は「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」なんですよね。でも、いわゆるホロコーストって、一般的に「大量虐殺」と呼ばれているんですよね。だからなんだっていう話ではあるのですが、ちょっとニュアンスが変わるような気がして、少し引っ掛かりました。小林氏は言葉の表現に対するこだわりの強い人なので、その違いに何かしらかの意図があったのかも……。

ここで結論を出したいと思います。『できるかな』が面白いのかどうかについてですが……いや、今見ても、けっこう面白いですね。もちろん、モチーフとなっている『できるかな』や、同じ時期に放送されていた子ども向け番組のタイトルやキャラクターを知っていることを前提とするため、世代によって評価は分かれると思いますが、私は面白かったですね。くだんの台詞については、当時の感覚ならばアウトとまではいかなくともギリギリ笑いの範疇に収まるレベルだったのかしら、という印象です。もしもフリの部分がなかったら、そこまで笑いにならなかったんじゃないですかね。今だったら、表現的にアウト云々以前に、言葉のニュアンスがキツ過ぎて客がウケないような気がします。今のお客さんはその辺りをシビアに感じ取っている印象がありますから。事件の凄惨さ以上に鉄球作戦のイメージが根強い、あさま山荘事件ごっことかならウケるかもしれません。そもそも若い人が事件そのものを知らない可能性も高いですが。

こちらからは以上です。

最後に余談。ラーメンズによる『できるかな』パロディですが、2016年6月に放送された小林賢太郎冠番組小林賢太郎テレビ8』の中で再び演じられています。ただ、こちらで演じられているのは、舞台裏ではなく実際の番組収録。98年にソフト化されたコントの続編を、18年の時を経て映像化したわけですね。こちらの映像も既にソフト化されていますので、機会があれば是非。

2021年8月の入荷予定

18「 すゑひろがりず結成拾周年全国行脚~諸国漫遊記~
18「M-1グランプリ2020 スピンオフ マヂカルラブリー漫才論争へのアンサーLIVE
25「ベストネタシリーズ ロッチ
25「ベストネタシリーズ ナイツ

いつもお世話になっております。すが家です。

今月の注目作はなんといってもすゑひろがりず。自身初の単独作品です。動画サイトでのゲーム実況が好評な彼らですが、注目を集めるきっかけとなったのは『M-1グランプリ2019』決勝進出。きちんとネタが面白いからこその評価なのであります。本作には今年の春に全国四都市を巡るツアーを敢行した公演が収録されています。六本の漫才にコントに映像、更にゲストとして「みなみのしま」が出演しているとのこと。また、初回限定として、和風重箱仕立て仕様のものもリリースされるそうです。大売出し。

こちらも自身初の単独作品となるマヂカルラブリーは、『M-1グランプリ2020』優勝を記念して行われたライブの模様を収録。優勝直後、巻き起こった「マヂカルラブリーの漫才は漫才か漫才じゃないか論争」を受けて、二人がアンサー漫才を披露しております。また、漫才とは何か?という議題に挙がりそうな「松下ひもの」「虹の黄昏」「モダンタイムス」の三組とともに漫才について熱く議論を交わす……そうです。東京五輪の熱狂でうっかり忘れてしまいそうになっていた例の一件、彼らはどのように笑いへと消化してくれるのか。気になりますねえ。

『ベストネタシリーズ ナイツ』および『ベストネタシリーズ ロッチ』は、いずれもコンテンツリーグがリリースする芸人のベスト盤シリーズ。過去の映像の中から選りすぐりのパフォーマンスが収録されています。ちなみに、第一弾のラインナップは2017年8月にリリースされた「アンジャッシュ」「ラバーガール」「うしろシティ」「バイきんぐ」、第二弾は2017年9月にリリースされた「TKO」「アンガールズ」「ハライチ」でした。……ちょこちょこコンビとして活動してないところがいますね……。

『読む余熱』第二号について

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

先月、配信が開始されました『読む余熱』第二号において、テキストを寄稿させていただきました。今号の特集は「大好き!テレビバラエティ」ということで、テレビ番組よりも芸人のネタを愛でたい人間としては些か厳しいテーマではありましたが、脳味噌をこねくり回しに回して、今の私が最も好きなバラエティ番組『テレビ千鳥』より、特に印象に残っている企画を三つほど紹介させていただきました。いずれもDVDに収録されている回なので、本書をきっかけにそれらを視聴していただけますと幸いです。対して、既に番組(ないしDVD)をご覧になられている方には、「ああ、分かるなあ……」と共感してもらえるような内容にしたつもりですので、いずれにしてもご購読いただけますと非常に有り難い……と、担当者が申しています。たぶん。

こんな私を筆頭に(amazonで検索すると私の名前が最初に表示されるのです。そんなネームバリューは私にはありませんから、何かの間違いだと思っています)、飲用てれびさん、児島気奈さん、ヒャダインさんが寄稿されています。飲用てれびさんは『あちこちオードリー』における虚実と本音の狭間にある“本音のようなもの”の面白さについて、児島さんは『タモリ倶楽部』におけるタモリの嘘の無さとそれに近い雰囲気を漂わせているとある中堅芸人について、ヒャダインさんは『ゴッドタン』『有吉の壁』『全力!脱力タイムズ』などの番組を挙げながら近年のテレビに対する思いについて、それぞれ書かれております。ちゃんと軸のあるテキストの数々を眺めていると、自分の存在の耐えられないほど軽い文章と肩を並べてしまっていることが、なにやら申し訳ないような気持ちになってきます。嘘ですが。特に飲用てれびさんの文章は読み応えバツグンで、流石!の一言。テレビをテーマにしたコラムというと、どうも俗っぽくなりがちですが、飲用てれびさんの文章は常に華麗で驚かされます。

というわけで、今号も過去二回に負けず劣らず上出来!なのですが、感覚としてあんまり話題になっていないような印象を受けます。思うに、過去二回が否が応でも議論が白熱する特定の賞レースをテーマにしていたのに対し、今号は「テレビバラエティ」というざっくりとしたテーマだったことが、あまり読者に響いていない理由なのではないでしょうか。……なので、次号は何かと話題の『キングオブコント2021』をテーマにすればいいのではないでしょうかね……と、ここでこっそり言ってみたりして(←直接、担当さんに、話を切り出す勇気がないヘタレ)。

ラーメンズと差別と

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

皆さんはラーメンズという芸人をご存知でしょうか。ラーメンズ多摩美術大学の同級生だった小林賢太郎片桐仁によって1996年に結成されました。コンビが結成された当時、若手芸人の多くはテレビでの活躍を目指していましたが、バラエティ番組での立ち振る舞いを得意としなかった彼らは舞台を中心に活動。単独公演、ソロ公演、演劇にユニットライブなど、多様なスタイルで活動していましたが、2020年に小林賢太郎が表舞台での活動からの引退を表明。コンビは事実上の解散となってしまいました。

このラーメンズのコントに『高橋』というネタがあります。2001年に開催された第8回単独公演『椿』の中で演じられました。現在はYouTube上で無料公開されております。興味がありましたら、ご鑑賞いただければと存じます。

『高橋』は二人の男性が待ち合わせして、お互いに声を掛け合う場面で幕を開けます。

「おう、高橋」
「おお高橋」
「あれ? 高橋は?」
「まだ来てない。もうすぐ来るんじゃないかなあ、高橋と一緒に」
「じゃあ高橋と高橋はどうした?」
「あ、あいつら来れないって」
「マジで!? おいおい、じゃあ高橋と高橋抜きで高橋に行くのかよ」

このやり取りを受けて、観客は気付きます。このコントで描かれている世界の人々は、どうやら全て“高橋”であるということに。だからこそ、二人は“高橋”という名字だけで、それぞれが別人であるということをしっかりと理解できています。この、観客が理解している常識の世界と、舞台上で繰り広げられる「私たちにとっては非常識な世界での常識的な会話」がもたらす歪みが、笑いへと昇華されます。

ですが、コントが進行するにつれて、観客は更に新しい事実に気付かされます。

「実は、高橋に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なんだよ、改まって高橋」
「俺……親が離婚して、名字が変わるんだ!」
「ええ!」
 (略)
「今までありがとう。高橋には高橋だけで行ってくれ。俺はもう一緒に過ごせないけど、高橋同士、仲良くな……」

なんと、この世界にも、高橋以外の名字が存在していたのです。そして、どうやらこの世界では、「高橋という名字ではなくなってしまった人間は、高橋とは一緒にいられない」とされている、つまり高橋じゃない人間は差別されているようなのです。事実、この後の展開では、「高橋以外が受ける非高橋差別」という台詞も飛び出します。元々のナンセンスな設定に加え、二人の絶妙に誇張された演技の面白さもあって、この辺りのシーンでも笑いが生まれていますが、高橋以外の人間がどのように扱われているのかを想像すると、とても笑っている場合ではありません。

また、このコントで重要なのは、差別を受ける理由が名字にあるという点です。見た目や性格などのような個人の性質によるものではなく、ただ名字が違うというだけで迫害されているのです。無論、個性を理由に迫害されることも、決してあってはならないことですが、それでも当人の意識次第で対応することも出来ます。だが、名字に関しては、どうにも変えようがありません。それは自らの出自、生まれ故郷や祖先にまでさかのぼった、脈々と流れる血を起因とした差別の存在を匂わせます。果たして、高橋による高橋以外への差別には、どのような歴史が合ったのでしょうか……。

これらを踏まえた上で、このコントのオチを見てみると、より一層うすら寒いものを感じさせます。差別について考えてみるとき、この『高橋』のことを思い出してみて、そっとその視点に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。自らの意見の正しさを主張するために、意見の反する相手のことを「高橋じゃないヤツ!」と糾弾してしまわないように。

(今回の記事は2019年10月にnoteで公開したものを再構築しました)

野次馬と責任とテンダラー

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。

突然ですが、皆さんは野次馬になったことがありますか。自分の身近なところで、何か事件や事故が発生したときに、その場で困っている赤の他人に救いの手を差し伸べることなく、一定の距離を保ちながらボンヤリと様子を伺うような経験はありますか。私はあります。何度もあります。良くないことだとは分かっているのですが、なかなか好奇心を上手く抑えることが出来ず、無責任な第三者としての立場から、ついつい事態の全貌を目に焼き付けようとしてしまいます。

ただ、野次馬といっても、決して当事者のことを嘲笑するような気持ちにはなりません。むしろ同情しています。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。こんなことが起きてしまったら、後が大変だろうな。自分もこんなことにならないように気を付けなくてはならない……と。あくまで助けようとはしないだけで、心の中ではちゃんと心配しています。とはいえ、それは果たして、本当に心配しているのだろうか、という疑念も捨てきれません。心配する素振りを見せることで、ただの野次馬になってしまっている自らの愚かさから目を背けようとしているだけのような気もします。

野次馬といえば、古典落語の『たがや』を思い出します。生前、立川流家元・立川談志は『たがや』について、「この落語の本質は野次馬の無責任ではないか」と語っていたそうです。大勢の人でごった返している両国橋でたが屋と侍が揉め出して、とうとう刀を抜いての大立ち回り。対するたが屋は丸腰ながらも大健闘しますが、最後は侍に首を斬られてしまいます。その首が、斬られた拍子にポーンと空高く飛び上がると、それまでたが屋を応援していた野次馬たちの中から、「上がった上がった上がった!たぁ~が屋ぁ~!」と、まるで花火が打ち上がったときのような掛け声が……。この、状況に応じてあっさりと手のひらを返す無責任さこそ野次馬の本来の姿で、『たがや』はそれを浮き彫りにしたものである、とのこと。

それを踏まえると、話題のニュースに対してSNSにおいて持論を発信する行為もまた、野次馬的といえるのかもしれません。その瞬間、確かに私自身は、お笑い評論家などというトンチキな稼業を名乗っている者として、そのニュースに関する情報を真剣に発信しているつもりにはなっていますが、それはやはり過激に糾弾されない立場だからこそ言えること。これがもし、なにかしらかの研究で知られる著名な学者だとか、ある地域においては多大なる権力を持つ政治家だとか、創作物で大衆を魅了する作家・芸術家だとかのような、世間に影響力のある立場であった場合には、無責任で自己満足の域を出ない持論など、そう易々と世間に提示できるわけがありません。それこそ即座に批判の的となったことでしょう……無責任な野次馬たちの。

もうひとつ、野次馬といえば思い出すのは、テンダラーのコント『殺人現場』。初出は不明ですが、彼らが『爆笑オンエアバトル』へ初めて出場した時に、このネタを披露していたようです。現在は2008年4月に行われたベストネタライブの模様を収録した『$10 LIVE ベストコントヒッツ!?』にて視聴することができます。そういえば、今や漫才師としてのイメージがすっかり定着している彼らですが、当時はむしろコントをメインに活動するコンビでした。関西ではやはり漫才の需要の方が高いのかしら。

舞台は路上で起こった殺人事件の現場前。立入禁止と書かれている札を掛けたロープが張られています。ロープの前には警察官(白川)が一人。一般人がうっかり立ち入らないように、見張り役として目を光らせています。と、そこへ偶然にも通り掛かったのは、ランドセルを背負った好奇心旺盛な小学生の少年(浜本)。何を言うでもなく、さりげなくロープの内側に入り込もうとします……が、すぐさま警察官に止められてしまいます。ミッション達成ならず。実は少年の自宅は事件現場を抜けた先にあり、ここを通り抜けないとかなり遠回りをすることになるのです。というわけで少年は、ありとあらゆる手段を駆使して警察官の目をかいくぐり、ロープの内側への侵入を試みます。

「警察官に怪しまれないようにさりげなくロープの内側に入るためにはどうすればいいのか?」というお題に対して様々な回答を提示する、大喜利スタイルのコントです。シャツのポケットに忍ばせた昆布を警察手帳に見立てて刑事の振りをしたり、ロープに銭湯の暖簾をかけて番台を抜けるようにくぐったり、とにかく視覚的な面白さに満ち溢れています。誰が見ても面白い、明るく楽しい愉快なコント。しかし終盤、捜査本部から流れてきただろう無線連絡によって、その場の空気は一変。なんと、その殺人事件の被害者は……。

このコントに登場する少年は、厳密にいえば野次馬ではありません。ですが、仕事を全うしている警察官に対する態度は、まさしく野次馬そのものです。身勝手で煩わしくて無責任。責任がないからこそ、事件に対して無作法な態度を取ることが出来るわけですね。ですが、いざ無責任のハシゴを外されてしまう……その事件と自分自身が無関係ではなくなってしまう……と、一気に状況は引っ繰り返ってしまいます。その立場は意外と脆弱で危ういです。だからこそ、たとえ野次馬とはいえども、野次馬らしく、あくまでも無責任な者としての立場を自覚しなくてはなりません。

このような話を聞かされると、「いや、私たちにも、自由に意見を主張する権利がある」と主張される方もおられるのではないかと思われます。無論です。自由です。ですが、自由には責任がつきものです。今や、有名無名を問わず、自分の意見を主張できる時代だからこそ、誰もが言葉に責任を背負う義務を持っている筈です。あなたが今、まさに野次馬となって罵詈雑言を浴びせている相手は、数年後のあなた自身なのかもしれませんよ。「そんなことは有り得ない」と思われるかもしれませんが、十年以上前に演じた未熟な時代のコントの台詞で大きな仕事を解任させられた演出家だっているのですから、あなたの今の発言が数十年後に批判されてしまう可能性だってゼロじゃないでしょう。だからこそ皆さん、ちゃんと自分の言葉には責任を持たないと、いつ首を(スパッ)

上がった上がった上がった! すぅ~が家ぁ~!

アンジャッシュはもう取り返しがつかない

どうも、すが家しのぶです。全てを知っているようで知らないことばかりです。

ピタゴラスイッチ』を手掛けたことで知られる佐藤雅彦氏の文章を読むのが好きで、新刊が出るたびに購入しています。人間の在り様をシャープな視点で切り取っているのに、柔らかな語り口で親しみやすく、読むたびに「こういう文章を書くことが出来たなら……」と羨望の目で見てしまいます。もっとも、何も考えずに書き始めて、思うがままに書き殴るような私のスタイルでは、佐藤氏のような文章はとても書けそうにありませんが。腰を据えられない性質なのです。 

氏の単著の中でも特に好きな本が『毎月新聞』です。『毎月新聞』は毎日新聞の片隅で一ヶ月に一度のペースで連載されていたコラムを一冊にまとめたもので、内容もさることながら、実際の新聞記事をそのまま再現したようなデザインがたまりません。現在は文庫版・電子書籍版が手に入りやすいようですが、個人的には、これまた実際の新聞紙に近づけたような大きいサイズの単行本版をオススメします。

この『毎月新聞』に書かれたコラムの中で、強く印象に残っているものがあります。タイトルは「取り返しがつかない」。2002年8月21日に発行された毎日新聞に掲載されたテキストです。ある日、佐藤氏の元へ、高校の同窓会から名簿が送られてきます。そこには同級生の名前や現住所、勤め先などが記されていました。名簿を眺めながら、当時の仲間たちの「今」に思いを馳せます。しかし、それらの名前をあいうえお順に見終って、最後の1ページを見た瞬間、佐藤氏は息を呑みました。最後の1ページは「死亡者」の欄だったからです。そして、そこにはかつて、仲の良かったS君の名前がありました。それも、亡くなってから、けっこうな年月が経過していました。その時の心境を、佐藤氏は次のように書き記しています。

Sの死が取り返しがつかないことは、どうしようにも逆らえないことである。しかし、僕が取り返し様がないと感じたのは、そのことではない。それは、Sが当然どこかで生きていることを前提として、僕自身が生きてきたことである。別の言い方をすれば、僕はそのSの存在があるものとした"バランス"で生きていたのだ。知らずに過ごしてきてしまった長い時間こそ、僕にとって、もうひとつの取り返しのつかないことであったのだ。(『毎月新聞』99pより)

この哀しみを伴った文章を思い出すたびに、まるで紐づけされているかのように脳裏に浮かんでくるコントがあります。アンジャッシュの『家が燃えています』です。2011年に開催された単独ライブ『五月晴れ』の中で披露されました。

仕事を終えたサラリーマンの上司(児嶋)と部下(渡部)が、居酒屋で乾杯を始めます。二人の会話によると、どうやら上司は一度家に帰ったものの、飲みに行きたくなったため部下を誘って居酒屋へとやってきたようです。何処にでもあるようなごくありふれた光景ですが、そこへ不穏なナレーションが。児嶋一哉、38歳。ジンリキ商事・営業部・第二課課長。この男、さきほど家を出る前にタバコの火を消し忘れ、自宅で火災が発生。今、家が燃えています」。とんでもない状況ですが、二人がその事実を知ることはありません。当然、飲み会は中止されることのないまま、滞りなく進んでいきます。しかし、その間にも、着実に家は燃え続けます。

このコントの肝となっているのは、自宅が燃えているという状況を知らない上司の発言が、自宅が燃えている(或いは自宅を燃やしたことのある)状況の人間ならば有り得ないような内容になっている点にあります。例えば、以下のように。

児嶋「お前、今期の目標スローガン、どうしたんだよ」
渡部「あー、僕は【地域密着、細かな気配り、大胆な戦略】にしました」
児嶋「……は? なんか何が言いたいかよく分かんねぇよ」
渡部「課長はスローガンどうしたんですか?」
児嶋「俺はずばり、【完・全・燃・焼!】」
 ナレ「家が燃えています」

もしも自宅が燃えていると知っていたら、こんなことは言えません。

これらのような上司の愚鈍な発言と、その度に「家が燃えています」と現実を叩きつけるナレーションによって、このコントは笑いを生み出しています。ですが、それはあくまで、観客である私たちが「上司の家が燃えている」という状況を理解しているからこそ、成立するものです。実際にはこんなナレーションが流れることはありません。だからこそ、このコントは残酷なほどに現実です。先の佐藤氏の表現を応用するならば、この上司は「自宅があるものとしたバランスで生きている」に過ぎないからです。このコントを観ながら笑っている私たちにとっても、これは決して他人事ではありません。今まさに、愚鈍な私たちの知らないところで、何かとんでもないことが起きている可能性もあるのですから。

ちなみに、この『家が燃えています』というコントは、前述した「家が燃えています」を中心とした前半パートと、部下が上司の男らしい振る舞いに見惚れて恋に落ちてしまうことがナレーションによって予告される「同性愛に目覚めます」を中心とした後半パートの二部構成になっています。

現在進行形で起こっていることを知り得ない上司の歪んだ“バランス”を笑いに昇華していた「家が燃えています」パートに対し、「同性愛に目覚めます」パートは、これから起こり得る未来を提示することで観客に「いつ部下が同性愛に目覚めるのか」を期待させる、割とありがちな仕組みになっています。その前時代的な設定も含めて、やや「家が燃えています」パートに比べて見劣りしていると言わざるを得ません。……もっとも、設定に関しては、今から十年前に行われた単独公演で披露されたネタなので、致し方ないことではあるのですが。もしも今、アンジャッシュが改めて『家が燃えています』の仕掛けを取り入れたコントを作ったとしたら、それはどんな内容のモノになるのでしょうかねえ。

償いと赦しとアンガールズ

どうも、すが家しのぶです。大変な時代に生きております。

三十代半ばにして、突如としてさだまさしブームが到来しました。Spotifyさだまさしのコンサートでのトークをまとめたベスト盤が配信されており、なんとなしに聴いてみたところ、すっかりのめり込んでしまいました。これがもうただごとじゃないぐらいに面白い。ひとつひとつのエピソードトークの精度が高く、笑いどころが随所に散りばめられていながら、登場人物たちの人間臭さもしっかりと反映されていて、まるで新作落語のような趣きを見せます。さだ氏が高校・大学と落語研究会に所属していたことも、この圧倒的な完成度に貢献しているのでしょう。

これをきっかけに他のライブアルバムも聴くようになったのですが、トークベストとは違って、そちらにはちゃんとさだの歌声も収録されております。いちいち飛ばすわけにはいきませんので、併せて聴きます。すると、だんだんと歌の方も、しっかりと聞き入るようになってしまいました。さだまさしの曲といえば『精霊流し』と『関白宣言』ぐらいしか知らず、それらも知識として理解している程度でしかなかったのですが、日本の原風景を思わせるような歌詞と繊細なメロディがあまりにも美しく、気が付くと、すっかり心を持っていかれてしまいました。もっとも、そちらが本業なのですから、当たり前といえば当たり前の話なのですが。

とはいえ、まだまだライブアルバムを中心にチェックしている段階のため、聴く曲は自ずと代表曲に限られます。『雨やどり』『案山子』『道化師のソネット』……完全なるにわかファンですね。

それらの中に『償い』という曲がありました。

不慮の事故によって罪のない人を死に至らしめてしまった青年“ゆうちゃん”が、「償いきれるはずもないが」毎月の給料を被害者の妻に送金し続けていると、事故から七年目の年に初めての便りが送られてきて……そんな物語がゆうちゃんの事情を知る友人の視点から描かれています。この曲名を目にした私は、なんだか懐かしい気持ちになりました。というのも、今から二十年ほど前に、この曲が世間から注目される出来事があったからです。

あれは2001年の春のこと。電車内で四人の少年たちが泥酔した男性と口論になり、男性からの暴行をきっかけに、意識がなくなるまで暴行を加え、放置する事件が発生しました。その後、男性は死亡。後日、四人の少年たちは出頭し、うち二人が傷害致死罪に問われて逮捕されました。翌年二月、東京地裁にて二人に実刑判決を下した裁判官が、判決理由を述べた後で、この『償い』の話を始めたのです。「この歌のせめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が人の心を打たないか分かるだろう」と二人に語ったことは、当時大きな話題となりました。この事件をきっかけにして、私も『償い』という楽曲のことを知ったと記憶しています。

『償い』は赦されるはずもない加害者の命がけの謝罪を描いた曲です。何の反応もないままに、それでも賠償金を郵送し続ける辛さはとても想像できるものではありません。ですが、それは被害者にとっても、同様のことがいえます。加害者の気持ちを理解し、赦してあげようという慈悲の心を持っていたとしても、心根では赦しきれない……そんなこともあるのではないでしょうか。

アンガールズのコント『友情』では、そんな被害者の理性ではどうすることもできない複雑な感情が描かれています。『友情』は2016年7月に行われた単独ライブ『~ゴミにも息づく生命がある~』の中で披露されました。

ベンチの上に置き忘れられていた田中の財布を、田中の親友である山根が出来心から自分のトートバッグに入れてしまいます。その姿を偶然にも目撃してしまった田中は、山根の元へと駆け寄り「今、俺の財布そこに入れた?」と詰め寄ります。当初、山根はシラを切ろうとしますが、田中に「今すぐ返したら赦すから!二十年の友達をさ、こんなことで無くしたくないから!」と説得され、すぐさま財布を返します。山根は自らの迂闊な行為について反省して落ち込み、それを田中が慰めます。これで二人の関係は元通り……に、なる筈でした。すべてを無かったことにして、バドミントンで遊び始める二人。ですが、山根がスマッシュを打ち込むたびに、田中の表情が曇り始めます。そして自らの本当の気持ちに気付くのです。

「ごめん!山根!さっきの全然赦せてないオレ!」

それでも二人は親友であることを続けるために、色々と試行錯誤を重ねます。それでも上手くいきません。とうとう二人は絶望して、友達関係を解消してしまいます。そこで田中がこぼした「友達の始まりに理由なんてないなあって思っていたけど、終わりには理由があるんだなあ」の一言の重みはたまらないものがあります。アンガールズという特異なコンビによって演じられているからこそ、このコントはナンセンスな笑いに満ち溢れたものになっていますが、その根底にあるテーマはとてつもなく重たく、私たち自身に圧し掛かります。果たして、私の友人が私の財布を盗もうとしているところを見かけて、その罪を赦そうとしたとき、私は友人のことを本当に心の底から赦せるのでしょうか。

さだまさしは『償い』のライナーノーツで、山本周五郎の短編『ちくしょう谷』からの一節を引用しています。「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない。ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」。むしろ人間は、そう簡単に人を赦せない、人を赦すことの出来ない生き物なのかもしれません。

最後に余談ですが、『償い』という曲はさだまさしの知人の実話を元に作られた曲だそうです。ただ、その知人は、事故の加害者ではなく被害者。つまり、さださんは被害者の妻から加害者の話を聞かされて、そこから加害者側の視点で曲を作ったわけです。アーティストとしてのさだまさしの凄みを感じざるを得ないエピソードですね。