令和時代のお笑い公論

心が壊死する、その前に。

「今夜、笑いの数を数えましょう」(いとうせいこう)

今夜、笑いの数を数えましょう
 

芸人ではない人間が「笑い」について語ることほど滑稽なものはない。どれほどの理屈をこねくり回したところで、舞台に上がった経験のない人間の語る「笑い」などというものは、所詮は机上の空論に過ぎないからだ。尤も、広い世間には、自分の好き嫌いが一般の評価であると思い込んでいる、自信に満ち溢れた井の中の蛙も少なくない。そういった人間に限って『ドキュメンタル』のレビューで某が面白くなかったなどと無責任に語りたがる。“松本人志の実験”と称したコンセプトをしっかりと噛み締めてもらいたい。……逆にいえば、舞台に上がった経験のある人間が「笑い」について語る場合には、こちらはグウの音も出ないということになる。なにせ向こうは観客を笑わせることで金銭を稼ぐ世界に生きる者だ。常識的世界で常識的作業を淡々と処理している庶民の我々では到達することの出来ない、実践としての「笑い」を知る者だ。

本書『今夜、笑いの数を数えましょう』は、そんな脅威の「笑い」論を余すことなく詰め込んだ一冊である。数多の舞台を経験している才人・いとうせいこうが、「笑い」の担い手たちとトークライブ形式で「笑い」について話し合っている。このような形式の本の場合、単なる思い出話に終始することも少なくないが、本文ではきちんと「笑い」についての話が展開されている。それも、単なる上澄みではなく、奥深いところまできちんと掘り下げる。例えば、いとうがバカリズムとの対談中に紹介した、ある哲学者の〈笑いはノイズ的な反応〉という話から、「笑い」とは〈笑わらない理由を消す〉〈神経の興奮の行き先を混乱させる〉という話へと展開するくだりには、非常に考えさせられた。どうして「笑い」が起こるのか、これほど根源的な話を聞ける場を私は他に知らない。この他にも、倉本美津留ケラリーノ・サンドロヴィッチ枡野浩一宮沢章夫、きたろうといった面々が、自身の経験に基づいた「笑い」の話を展開している。誠に稀少である。とりわけ、実際に芸人としても活動していた経験のある枡野浩一が、お笑いを受容する側として語っている話の内容は必見。不謹慎なネタで笑うことについて、真剣に話し合っている。

今後、「笑い」について考える上で、必ず読まなくてはならない一冊である。

フリーライターの武田砂鉄氏が書いた同書のレビューがあまりにもつまらなかったので、自分なりに書いてみた。当然のことながら、私の書いた文章が優れているとは思っていない。なにせ、前段に己の感情を詰め込みすぎて、肝心の書籍についての話が短くなっている。これでは本末転倒だ。それでも武田氏が書いた文章よりは、本書の魅力を伝えられているとは思う。なにせ、氏の感想文の結びが【「笑いとは何か」を探るはずの対談のそれぞれが、たちまち主題から脱線していく様が、とにかく笑える。】である。酷い。何が酷いって、この点に関していとうせいこう自身が前口上できちんと説明しているのに、それこそが主題であるかのように書いている点が酷い。

ただ、どうせだったら客前で、と考えたのが運の尽きであります。「今夜、共に笑いの数を数えましょう」と呼び掛けた人々も私も、観客の前となると分析よりも現象を採りたくなる。つまり、「笑い」を。そういうことでずいぶん脱線も多くありますが、そこは中心を目指したり逸れたりする「笑い」の運動の特徴でもございます。(『今夜、笑いの数を数えましょう』前口上より)

以前より、武田氏の文章には、カルピスの原液を味がしなくなるほどに水素水で薄めたような胡散臭い清潔感と味気無さを感じていたのだが、こんな700字ほどの書評でもその才能が如何無く発揮され様とは思いもしなかった。否、ただ薄っぺらいだけであれば、見なかったことにしてしまえば何も問題はないのだが、本書の「笑い」に対する誠実性を粗略に扱うような姿勢はとても許し難く、ゴールデンウィーク明けの平日であるにも関わらず、こうして長々と文章を書くことになってしまった。勘弁してほしい。

ちなみに、冒頭に書いた「芸人ではない人間が「笑い」について語るほど滑稽なものはない。」という一文は、「だが、それでも尚、芸人の視点に近付き、理解したい。」と続く。……続けたいと思う。