白昼夢の視聴覚室

この世は仮の宿

2024年4月のリリース予定

いつもお世話になっております。すが家しのぶです。3月末ということで、通常であれば来月である4月の気になるリリース情報を公開するところなのですが、今の時点で気になる作品を見つけられていません。ザ・ニュースペーパーの新作や、六代目三遊亭円楽師匠のDVDが出るようなのですが、私の食指があんまり動いていないので、こちらはスルーさせていただきます。そもそも4月にリリースされるDVDが少ないようですね。ライブ配信全盛の時代において、DVDの需要の低下をしみじみと感じさせられます。……もっとも、年度初めだからっていうだけのような気もしていますけど。3月はそこそこ出てましたしね。速攻で前言撤回です。どうでもいいですけど、前言撤回って“ぜんごんてっかい”って読みそうになるのは、私だけでしょうか。正しくは“ぜんげんてっかい”なんですよね。同じ母音の漢字が続くことに、無意識のうちに違和感を覚えているのでしょうか。本当にどうでもいいですけど。では、また来月。

「おもんない」ってハッシュタグこそ「おもんない」と思ったときの話。

今から三年ほど前に、とある芸人によるテレビ番組内での発言が批判を集めて、SNSで「〇〇おもんない」というハッシュタグがトレンド入りしたことがあった。これについて、当時の私は「番組内での発言に問題があったことと、〇〇が芸人として「おもんない」ことは、切り分けて考えるべきである」と考えたため、それらの事象に対して批判的なコメントをツイートしたところ、それを見た人たちから「〇〇を擁護している!」という反応を頂戴した。この反応の意味が、私には未だによく分からない。番組内での発言に誤りがあったのであれば、その発言が誤りであるとする理由を説明すればいいだけの話である。それを「おもんない」などと、発言者の仕事を否定するようなハッシュタグを作り出して、拡散する必要性はない。これまでの〇〇の仕事に対して不満を覚えていた人たちを、発言に対する批判の流れへと巻き込もうというさもしい意図しか感じられない。もしも、これが他の一般的な職種に就いている人に向けられた、その人の仕事を否定するような内容のものであったならば、もっとハッシュタグに対する批判の声が寄せられていたことだろう。思うに、このハッシュタグの根本にあるのは、「芸人だから、こんな風にイジッてもいいだろう」という、芸人という職業に対する侮蔑的な姿勢である。だが、その芸人に対する侮蔑的な姿勢こそ、芸人が社会的地位の低い存在として自由奔放に発言できる根拠に繋がっている。要するに、「〇〇おもんない」というハッシュタグが何の疑問も抱かれることなく拡散されている現実こそ、〇〇が芸人として無責任な発言をしても構わないとされても致し方のない地盤の存在を証明しているのである。しっかりと発言そのものについて批判するのであれば、このような「おもんない」ハッシュタグなど作らずに、真正面から物申すべきだろう。ちなみに、私自身は、〇〇のことを面白いと思ったことは、一度もない。興味もない。そもそも氏が全盛の世代じゃない。だから、じゃあ、なんでこの件に口を挟むのかというと、私が無責任な立ち位置にいるからである。この件に関しては、私こそが最も「おもんない」のだ。ははは。

地方民が感じた『オンバト』の功績の話

かつて“最もシビアなお笑い番組”というキャッチコピーで知られていたネタ番組爆笑オンエアバトル』の後継番組『オンバト+』の終了から、今年で十年になるらしい。十年の歳月は伊達じゃない。十年も経ってしまえば、ピッカピカの小学一年生はテッカテカの高校一年生になっているし、フレッシュな社会人一年生は三十歳を超えて体力の下り坂に足を踏み入れている。それだけの年月が経過すると、番組の功績についても忘れられてしまっているような気がするので、今回はその偉大な存在について改めて書き留めておきたい(以下、ややこしいので、表記を『オンバト』にまとめる)。

オンバト』が偉大であると断言する理由の一つとして、全国放送であったことが挙げられる。『ENGEIグランドスラム』や『ザ・ベストワン』のような大型のネタ特番が頻繁に放送されている今の時代からは考えられないかもしれないが、ゼロ年代初頭のテレビバラエティにおいて、芸人のネタが放送される機会は非常に少なかった。そもそも若手芸人の存在そのものが認知されていなかったようにすら思う。そんな時代において、『オンバト』は不特定多数の無名の若手芸人のネタを全国に向けて放送していた。この「全国に向けて」という点が重要だ。放送局が天下のNHKだったことで、放送時間帯が深夜であったにもかかわらず、地方ローカル番組や番組の再放送に枠を奪われなかったのである。これにより、若手芸人の存在が地方に住んでいる人たちにも知れ渡るようになり、後の津々浦々にまで広がっていくお笑いブームへの流れを作っていったのである。

地方……といえば、『オンバト』が複数回にわたって地方収録を行っていたことも、ひとつの功績といえるだろう。地方在住のお笑いファンを生み出すことに成功した『オンバト』は、放送回数を重ねるごとに各地方での収録を開催するようになる。この地方収録には、たびたび地元で活動している無名の若手芸人が参加していた。その多くは、常連と呼ばれている芸人たちの前に敗れ去った……のだが、中には、地の利を生かした戦い方で高い評価を獲得することに成功した芸人も存在した。更に、その中には、この地方収録での評価をきっかけに、番組へと頻繁に出場するようになる者たちもいた。要するに、『オンバト』は地方芸人の発掘にも貢献していたのである。ちなみに、そうやって地方から発掘されて、全国のお笑いファンに知られるようになっていった芸人の代表格として、タカアンドトシ(札幌収録)とパンクブーブー(長崎収録)がいる。どちらも後にM-1の決勝戦に進出しているが、もしも『オンバト』への出場をきっかけにフックアップされていなかったら、またちょっと未来は違っていたかもしれない。

ただ、『オンバト』の最大の功績は、オンエアされなかった芸人たちの負け姿を放送したことにあるのではないか、と私は思っている。10組の芸人がネタを披露し、観客投票によって選出された上位五組のネタだけがオンエアされる『オンバト』のルールにおいて、下位五組になってしまった敗退者には何も得られるものがない……と、思われがちだが、そんなことはない。全国のお笑いマニアたちに、「こういう名前の芸人が存在する」と認知されるだけでも財産となり得るからだ。例えば、地方で芸人たちによる営業ライブが開催されることになったときに、出演者がまったく名前を知らない芸人だった場合と、『オンバト』で名前とビジュアルだけでも確認できている芸人だった場合とでは、まったく関心の度合いが変わってくる。「オンエアされなければ“つまらない芸人”という烙印を押されてしまう」と否定的に捉える芸人もいたようだが、必ずしもそればかりではないということは伝えておきたい。

他にも功績があったような気がするし、一方で罪の部分も少なからずあったような気もする(偏ったお笑いマニアを生み出したとか、芸人のネタを数値で考える傾向を作ってしまったとか、大衆ウケはしないが才能のある芸人のネタが評価されにくかったとか)けれど、今回はこの辺りで。

リアルタイムで放送中のテレビドラマを批評することについての自問自答

リアルタイムで放送されているドラマの内容について批判的なコメントを寄せている人をSNSでたまに見かけるのだけれど、まだ物語が終了していない段階で批判するのって、なんかちょっとリスクが高い行為なんじゃないかって気がしているのだけれど、どうなんだろうか。だって、これから放送される予定のエピソードで、批判していた要素が実は伏線として仕掛けられていたものだった……って可能性もあるじゃない。もしも自分が同じ立場だったら、そうなってしまったときに「あちゃーっ!アレって伏線だったのかーっ!読み間違えたーっ!」って恥ずかしい気持ちで胸がいっぱいになってしまう。でも、そういうことをいうと、なんか面倒臭い人たちから絡まれそうだから、「いえ?僕は何も言ってませんけど?」というような表情で乗り切るしかない。あるいは「いや、確かに言いましたけど、あのエピソードを見た限りでは、そういう風に誤解されてしまう可能性は否定できませんよね?」とかなんとか言って、煙に巻くしかない。で、実際問題として、それもまた確かに批評としては間違っていなかったりする。テレビドラマって、第一話から最終話までがひとつのパッケージではあるけれど、第一話から最終話までの期間がそこそこ長いから、最終話での伏線回収までの間に、それまで垂れ流されっぱなしになってしまっているフリの部分が世間に多大な影響を及ぼしてしまう可能性も否定できないから。そこまでみんなちゃんとドラマとか見てないから。だから、全エピソードが放送される前に、批評するのも大事ではある。しかし、そう考えると、サブスクでエピソードを全話一挙配信みたいな昨今の流れって、割と理にかなっている気がするね。時間さえあれば最終話までしっかりと観てから批評できるから。でも、面白いテレビドラマを見ているときの、あの「次回が待ちきれない!」「どうなってしまうんだろう!」「最終話を見るまでは死ねない!」みたいな感覚もまた、サイコーなんだよなあ。難しいところだ。だから、まあ、途中のエピソードでの批評も仕方がないところではあるんだろうなって思うのは思うんだけど、ただちょっと気になるのが、割とそういうことをしている人って、そのエピソードがまだ途中だってことをけっこう無視して、断定的に批評し始める感じがしていて、そこはなんかちょっと引っ掛かったりもする。SNSでのウケを狙うがあまりに強い言葉を使っているだけなんじゃないかって気がしちゃう。まあ、実際にバズッているから、私の目に入ってきているわけなんだけども。それはそれで、その人の戦い方なんだろうけれど、ドラマを見てない人に「そういうドラマ」だって印象を与えちゃってる可能性について、ちょっとは配慮してもらいたいなあって思ったりする。……なんか、「芸人のネタを批評しているお前が言うな!」って言われそうだな。私は芸人のネタの批評はするけれど、社会的な問題が関わっている場合は慎重に取り扱っているつもりではあるよ。あくまでも「つもり」だから、意図せずして伝達されっちまうことはあるだろうけれど。ことによると向こうさんも同じことを思ってはいるのかもしれないな。いやはやなんとも難しい話だねえ……と、いったところで、お時間です。

マナーかな

先日、『アルコ&ピース D.C.GARAGE』を聴いていたら、「マナーって、何のために存在しているの?」という話題で盛り上っていた。作業をしながら片手間に聴いていたため、具体的な内容については覚えていないのだが、「エレベーター・エスカレーターの上座下座」に疑問を呈していたように記憶している。マナーとは、いわゆるところのマニュアルだ。絶対的な正解が存在しない人間社会において、「とりあえず、これをしておけば間違いない!」というひとつの指針として、マナーが存在しているのである。エレベーターやエスカレーターの立ち位置にさえマナーが存在するのも、指針がないと不安を覚える人のためなのだ。つまり、逆にいえば、相手が不快感を覚えない常識の範疇であれば、そこまでマナーを守り切る必要性もない。とはいえ、それがひとつの正解であることには違いないので、過剰に毛嫌いすることもない。知っておいて損はないが、囚われる必要もない。昨今のテレビバラエティでは、さもマナーこそが正解であるかのように取り上げられがちだが、ほどほどに適切な付き合い方をするのがベターだろう。ちなみに、調べてみたところ、マナーもマニュアルも語源は同じラテン語"manus"に由来している。「手」という意味の言葉で、マネージメントやマニフェストもこれに由来しているらしい。勉強になるなあ。

伊豆グリッシュマン with ニューヨーク

漫画の単行本を電子書籍で購入している。以前は、紙の本を買い求めていたのだが、自室に置き場が無くなってしまい、切り替えざるを得ない状況になってしまったのである。また、実家の物置に封印されていた、父が過去に集めていた漫画本を処分する手伝いをしたことも、考え方に少なからず影響を及ぼしたように思う。どんなに大切に保存したところで、いずれ劣化して、古本屋に廃棄処分同然の価格で売られてしまうことになるのなら、配信サイトが継続しているうちは読み続けられる電子書籍の方が良いだろう……と。

とはいえ、たまに「これは紙の本で読みたい!」という気持ちにさせられる作品もある。私にとってのそれは桜玉吉作品である。その面白さは電子書籍でも存分に味わえるものだろうが、デフォルメとリアルが混在する画風とペーソスに満ち溢れた質感のエッセイは、時を重ねるごとに劣化する紙との相性がバツグンに良いように感じる。本棚の目に入る位置に常駐させておいて、ふと思い出したときに手に取ろうと思える程度の良さも大きい。氏が精神的に病んでいた時代の作品は読んでいて苦しくなるが、それ以降のエッセイは油分が抜けきったかのように老成していて、読みたいときに読もうと思える絶妙な塩梅である。「別にこんなこと書き留めなくてもいいじゃない」というような話ばかりなのだが、だからこそ良い。もっとも、そんなことは電子書籍でも出来るわけだが、本棚から取り出せることに意味がある。いちいちアプリをタップして購入履歴から探し出す必要性がない。それが良いのだ。

ちなみに、これと似たような理由で紙の本で買い続けている本に、近藤聡乃『ニューヨークで考え中』がある。ひとつのエピソードがたった2ページでまとめられているフォーマットの軽やかさに対して、「文化の違い」「差別」「社会情勢」などの重厚なテーマが筆者の目線と思考でしっかりと語られていて、読み応えがある。テケトーに読める本ではないが、たまに取り出して、読み返している。

どちらもオススメである。

次のカミナリが出る前に 僕のオセロを全部めくるよ

カミナリのYouTubeチャンネル『カミナリの記録映像【公式】』が相変わらず面白い。

今月は、オセロの日本一を目指しているまなぶが、たくみとともに“オセロ発祥の地”として知られている茨城県水戸市を訪れて、様々な強敵たちと鎬を削る様子が数回にわたって公開されている。但し、それらは単なるロケ映像ではなく、名作テレビゲームシリーズ『龍が如く』のパロディ映像となっている。そのため、二人は【桐生まなぶ】【真島たくみ】をそれぞれ演じているし、ちょっとした移動の編集や対戦相手との掛け合いもゲーム的でクセが強い。おそらくスタッフの中に『龍が如く』のことを愛してやまない人間がいるのだろう。元のゲームをプレイしたことがない私でも、「こういう雰囲気のゲームなんだろうな」と察することが出来るほど、とても精度の高いパロディだった。

この遊び要素だけでも十二分に笑えたのだが、それに加えて、純粋にオセロの対戦そのものが面白かった。思い返してみると、他人が対戦しているオセロの試合を観戦した記憶がない。シンプルなルールのオセロを見たところで、さして楽しめないだろうという決めつけがあったのだろう。だが、ルールがシンプルであるからこそ、後半のあわただしい試合展開がたまらなく楽しい。子どもの遊びというイメージのあったオセロの楽しさを再認識させてくれる、とても有意義な企画だった。またいつの日か第二弾が公開されると嬉しい。

ちなみに、カミナリがテレビゲームに興じるサブチャンネル『カミナリの記録ゲーム【公式】』の方では、今月に入ってから『吉宗』『CR北斗の拳』『CR松浦亜弥』などのパチンコ・パチスロゲームをプレイしている様子が公開されている。二人が繰り広げるパチンコ・パチスロ関連の思い出話や雑談は非常に聞きごたえがあるのだが、デビッド・ワイズへの取材や古川未鈴でんぱ組.inc)のゲスト出演をきっかけにチャンネル登録したであろうゲーマーたちを置いてけぼりにしているような気がしないでもない。そういう幅の広さがカミナリの魅力ではあるのだが。

The Fool on the BEER

暑い時期になるとビールを飲みたくなる。日頃は缶チューハイハイボールを愛飲しているのだが、やはり暑さの最中に飲むとなると、否が応でもビールという選択肢になってしまう。太陽がギラギラと照り付けている日中に、全身の毛穴から汗が噴き出している状態で、炭酸の爽快感と強い苦味が演出するキレ味を帯びたビールをグッと口の中へ注ぎ込み、それらが喉を通過して腹の中へと流れ込んでいく快感は、他のアルコール飲料ではなかなか得られない。この快感のために、ビールを飲むときは敢えて窓を開けるようにしている。ここ数年の夏は、どんなに冷房を利かせていた部屋であっても、窓を開けてしまえば、すぐさま室内に侵入する熱風で地獄のような温度に満たされてしまうほどに高い気温をマークし続けている。通常であれば生活にも支障が出るほどに厄介な環境だが、ビールを飲むとなると話は違う。どういうわけか、身体が困憊すればするほど、その果てにあるビールの味は上手さを増していく。日々の暮らしで味わった苦みとビールの苦みが身体の中で共鳴するのだろうか。つまみも水分を抜くような塩分が高めのものが良い。柿の種やあたりめも好ましいが、個人的にはハムやベーコンといった加工肉を選びたい。とりわけ魅力を感じるのはソーセージである。ソーセージと少量の水を入れた状態のフライパンを火にかけることで、ボイルのジューシー感、それから焼きを加えることで皮のパリッと感、それぞれを両立させた状態のものにかぶりついてから、飲み干すビールなど、もはやこの世のものとは思えない。ちなみにビールを注いでいる器は、以前に発売された霜降り明星せいやによる"酒袋タンブラー"である。同製品には銀色の第一弾と黒色の第二弾が存在するが、第二弾の方が圧倒的に飲み口が良い。やや値は張るが、是が非でも手に入れるべき逸品である(デザインがこれまた素晴らしい)。もっとも今は三月である。私が理想とするビールを楽しめる時期は、まだまだ先のことである。特に夏は好きな季節ではないのだが(むしろ私が好きな季節は秋である)、今から待ち遠しくて仕方がない。